24.150m

「これは……」

 土井に連れていかれたのは誰もいない空き教室だった。

 ここに着くまでの廊下でさえ人通りがあまりなく、どことなく湿気た薄暗い雰囲気が漂い、それがこの教室に近づくにつれて強くなっていた。

 ここで取材をするのだろうか、ちょっと思ってたのと違うな。

 呆然とする僕の表情を読んでか、静かに口を開く。

「人払いしておいたから。人がいないし、変なのはそれのせい」

 聞きたかったのはそっちじゃないんだけど……今から聞くのも気まずいな。

 人払いねえ。

「悪魔ってのはすごいんだな」

「こんなの活動に何の役にも立たないけどね、いえ嘘。だいぶ助けられてるかも」

「うちの天使もこのくらい出来ると助かるんだが」

「あれはやる気がないだけじゃない?」

「じゃああいつも時間止められたり、瞬間移動できたりするのか。やるな白崎」

「そこら辺は悪魔の専売特許だから。そこら一帯を焦土と化すことはできると思うけど」

「物騒だな!?」

 そういえば今朝土井に時間を止めてもらいたがってたし、やれることの違いはあるのか。

 攻撃的な能力ばかり持ってるなら現実に生かすことも難しいのかも。

 自分の特性に合わない生活を強いられる白崎に同情しつつ、土井に目をやる。

「なにをしていらっしゃるんですかね」

「瞬間移動の準備」

 机や椅子、ロッカー等使われない雑貨が積み上がる教室の中心、そこに土井はかがんでいた。

 手に持たれているのは黒のマジック。埃を被った床を覆うくらい大きな魔方陣を彼女は描いていた。円の中に五芒星、見たこともない文字や絵が至るところに描かれ、ひょっとすればただの落書きにしか見えない。

 描きかけだったそれはもう少しで作り終わりそうだった。


「まさかちょくちょくいなくなったのは」

「これ描いてたから」

「人払いは」

「……見られるとは恥ずかしい」

「あーJKが空き教室で魔方陣描いてるのとか見てらんないもぐふっ!?」

 顔面に直撃したマジックを拾うと、すぐそばに土井が来ていた。

「来て」

 短い召集、鼻を押さえる片手を奪うように繋いで、魔方陣の中心に二人で立った。

 

 土井が指を一度鳴らす。

 地面に伸びる黒マジックの魔方陣を取り囲むように黒い直線の亀裂が走る。

 その亀裂は白く、赤く、青く、緑で、まるで画面表示が処理に耐えられなくなったように淀んだ。視界が僅かに分離するようなノイズが走り、モノトーンの砂嵐が視界を塞ぐ。


 瞬間移動。


 その名の通り、『点と点をそのまま繋ぐ』現代科学では際限のしようがないとびきりのオーバーテクノロジー。それが今まさに行われようとしている。

 ただの空き教室にマジックで描かれた魔方陣で……急に不安になってきたな。

「これ安全なんだよな、純度100%の人間なんだけど、これに耐えきれないとかないよな」

「……大丈夫」

「変な間があったぞ、本当だな?本当に本当だな?」

 繋いだままにしてくれている手を少し強めに握って、目をつむった――


 ――強く風が吹いた。

 閉じた目でも十分に分かる自然光、校内ではないどこかに飛ばされたことへの実感がじわじわと湧いてくる中、ゆっくりと目を開く。

「はっ」

 変な笑い声が出た。

 

 270度くらいの大パノラマはどこまでもビルが続き、ゴマ粒のような小ささの車が幅の広い道路に乱れなく整列している。港があり、遠くには海が見える、埋め立てられた四角がいくつも連なる海。沈みつつある太陽はそれらに陰影を薄く、曖昧に混ざるように落としている。

 東京のどこだったっけ、港区か?

 赤い電波塔の展望台の上、柵も何もない、本来行くことはできない屋上に辿り着いていた。


 悪魔の姿をした土井――qedは振り向き、鋭い目つきを甘くして手招きをする。

 いつの間にか彼女は屋上の縁に座り、地上150mくらいで両足をぷらぷらとさせている。

 あそこに座れと言っているのだろうか。

「言われなくても行くよ」

 見たことのない景色でハイになった気分を行使して、qedの隣に座る。

 下を見ると、ピントがぶら下がる現実味の無い灰色の凹凸が広がっていた。

 ぬるい体温が右腕に伝わる。

「いいよねここ」

 強く吹く風に気持ちよさそうに目を細める。

「アイデアに詰まったとき、考えをまとめたいとき、ここに来てるの」

「とっておきの場所なんだな」

「最近悩んでるよね、くのらのこと」

「さて、なんのことだか分かりませんね」

「まだ言うか」

 頭を小突かれて、笑ってみせる。


 これはqedなりの気遣いなのだろう。

 こんな日常感のない景色を見れば僕の気が晴れると思ったのかもしれない。

 早めにあいつには言うこと言わないとな……いつ言うかは置いといて。


「ありがとう、これが埋め合わせ?」

 こくりと頷く。

「はーんじゃあデートの話はまるっきり嘘だったわけだ。緊張して損した」

「デートじゃなくて取材……あと嘘じゃない」

「あ、そう。けどこれ以上僕から聞くことなんかあるか?」

「取材とあなたからの埋め合わせも兼ねて、してほしいことが一つある」

 聞きたいではなく、してほしいときたか。

「あの話は天使側の想いが書かれてあるだけ。それだけじゃ曲に奥行きが出ない。いや事の成り行きの中で嘘つきがどういう思惑で動いていたかは知らなくていいんだけど」

 「嘘つき目線も入ると、それはおとぎ話ではなくて事実のようになるから」と土井は続ける。

「私は天使と嘘つきの関係性が知りたい。活動を続けていくにあたってお互いにどういう思いを重ねていったのか。天使は分かりやすい、見たまま、あの話のまま。けどあなたは――嘘つきはどういうつもりで天使と接しているのかが分からない」

「あの、qed?」

 饒舌に話す彼女の瞳孔は開ききっている。

 いつになく、悪魔のようだ。

「だから教えて」


 トンと。


 彼女は僕の背中を押した。

 抗う術も無く、強風に乗って体は少し浮いて、展望デッキに手を伸ばしても届かない距離まで飛ばされて、必死にもがく時間も無く落下を開始した。

 qedの口が動く、なんて言っているのか聞き取れるほど心は静寂じゃない。

 地上150m。

 僕は疑問にまみれた頭で死を直感した。

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