第3話 忘れ物


 上はワイシャツ、下はパンツだけの姿になったオレは、腰にビッグサイズのバスタオルを巻き、行儀正しく膝を合わせて、キッチンの椅子に座っていた。

 どぶ川にはまった、小学生のようなかっこうである。


 濡れた革靴は新聞紙で包まれ、玄関に置かれている。

 濡れた靴下とズボンは、洗濯機の中でぐるぐると回っている。

 スーツは、吉沢さんが軽く水拭きをし、乾いたタオルで湿気を取った後、ハンガーにかけてくれた。


 靴下とズボンが洗濯、脱水され、乾燥が終わるまでがチャンス・タイムなのだろうが、妄想の世界とは違い、現実世界での恋愛経験の浅いオレは、何をどうしたらいいのか分からなかった。


 「悪いね」「ありがとう」「助かったよ」を何度か繰り返し、借りてきた猫のように、大人しく椅子に座っているだけである。

 このチャンスを活かすアクションを起こさねばと焦りつつも、視線を動かし、こっそりと部屋を観察することしかできない。


 オレのマンションとは違い、玄関を開けると、すぐキッチンになる間取りとなっている。

 キッチンの横には、洗面所に続くドアがある。

 吉沢さんが、オレの濡れた服を持ち込んだ場所だ。


 そこから洗濯機の動く音が聞こえる。

 おそらく脱衣所を兼ねているのだろう。

 見まわしたところ、トイレのドアが無いことから、洗面所から浴室だけではなく、トイレにも行けるはずだ。


 キッチンのスペースはオレのマンションより広く感じる。

 たしかキッチンは六畳未満で、ダイニングキッチンは六畳以上、十畳未満の広さだと聞いたことがある。


 奥には、閉じられた引き戸がある。

 引き戸の向こうは、プライベートルームなのであろう。


 オレが妄想していた吉沢さんの部屋の雰囲気と、それほどの違いは無い。

 家具の配置や色合いが落ち着き、心が和む表情を持った部屋だ。

 でも、どこか無機質で、吉沢さんが住むには、そぐわない空気が漂っていた。

 何か怖い一面を潜ませているような、部屋の表情である。


 オレは閉じられた引き戸に目を向けた。

 あの向こうには、ジェイという男の私物があるのだろうか?

 それが、この和やかな空間に、違和感を生み出しているのだろうか。


 ……でも、そんな私物など無いかも知れない。

 さっき吉沢さんは、一人暮らしだと言っていたのだ。

 それは、ジェイと別れたと言うことを意味しているのではなかろうか。


 ……いや、いやいや。

 決めつけるのは早計だ。

 基本的に一人暮らしだけど、ジェイが頻繁に泊りにくるということも考えられる。


 「はい、どうぞ」

 そんなことを考えていると、吉沢さんが熱いコーヒーをオレの前に置いてくれた。


 「災難でしたね」

 小さな丸いテーブルをはさんで対面に座った吉沢さんが、同情するような目で言う。

 「でも、こうやって、吉沢さんの部屋に招待されたんだから、ラッキーだったよ」とは、返せない。

 妄想世界の中では気の利いたセリフも、リアルで口にすると、おそらく毎晩眠る前に、枕を引っかいて身もだえするほどの後悔に襲われるのだろう。


 結局、当たり障りのない会話をしている間に、乾燥終了のブザーが聞こえた。チャンス・タイムの終了である。

 これほどのチャンスに何もできなかったオレは、結局、しばらくの間は、枕を引っかいて身もだえするほどの後悔に襲われそうだった。


 ◆◇◆◇◆◇


 吉沢さんのマンションを出たときには、雨はやんでいた。


 一人で駅に向かうまでの間に、どうして「お礼に今度、食事でもおごらせてよ」の一言が思い浮かばなかったのかと、悔やみに悔やんだ。


 これなら自然である。

 下心無しのジェントルマンの誘いでも通じたはずである。

 しかも、オッケーをもらえれば、その連絡用にという口実で、吉沢さんのメールアドレスをゲットできたはずなのだ。

 そこまで考えたとき、吉沢さんの部屋にスマホを忘れていることに気づいた。

 

 オレは吉沢さんのマンションへ戻ることにした。


 ◆◇◆◇◆◇


 何度かチャイムを鳴らし、軽くドアをノックしてみたが、返事は無かった。

 「吉沢さーーん」と、左右の部屋に聞こえぬていどに呼びかけてみるが、やはり返事は無い。


 困ったなと思い、軽くドアノブに手を掛けてみると、ドアノブが回った。

 開いている。

 鍵がかかっていない。


 「吉沢さーーん」

 オレはドアを開けると、顔だけを室内に突き入れ、呼びかけてみた。

 やはり、返事は無い。

 鍵を開けたまま、外出したのだろうか?


 「スマホ、忘れたんだけど~~」

 言い訳のように言いながら、オレは玄関に入った。

 キッチンのテーブルに目を向けると、そこにオレのスマホがあった。


 靴を脱いで、三歩も入れば、手が届く位置である。

 しかし、忘れ物を取る為とはいえ、勝手に他人の家に入るのはためらわれる。


 「吉沢さーーん」

 もう一度呼びかけたオレは、覚悟を決めて靴を脱ぐと、一歩、二歩とテーブルに向かって室内を移動した。


 ……?

 携帯に手を伸ばそうとしたとき、奥の引き戸が、三分の一ほど開いていることに気づいた。

 引き戸の向こうの部屋は、照明を消しているため、中の様子はよく分からない。


 オレは首を伸ばし、奥の部屋の中を覗こうとした。

 そのとき、背後に何かの気配を感じた。

 気配だけではなく、低い位置で、かすかな物音も聞こえた。


 ギクリとして振り返る。

 ……最初それは、無造作に丸め、筒状にしたカーペットに見えた。

 部屋の隅、壁と床が作る角の部分に、無造作に押しやられた茶色っぽい色のカーペットだ。

 長く伸び、何かが下にあるのか、中央部分が大きく膨れ上がっている。


 ……なんだ!?

 よく見ると、そのカーペットの先端は、蛇の頭をしていた。


 全身が一気に冷たくなった。

 それは、カーペットなどではなく、大きく腹を膨らませた大蛇であったのだ。



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