第2話 妄想から現実へ

 

 それから一ヶ月後。

 穴倉の向こうから、ショッキングなニュースが届いた。


 キンキン声の平野と、腰かけを公言しつつ、なかなか実行できない宮地の会話が聞こえてきたのだ。

 「ねえ、宮っち。聞いた? 

 久美子って同棲してるんだって」

 「ウソ! マジ?」

 宮地がオレの心の声を代弁してくれた。

 鼓動がバクバクと早くなる。


 「どんな人なの?」

 「ジェイっていうんだって?」

 「マジ? 海外の人なの?」

 「ジェイで日本人だったら、相当、イタイでしょ」

 二人が小さく笑い合ったが、オレは笑えなかった。

 あの吉沢さんが、異国の男と同棲しているのである。


 「相手は日本語しゃべれるの?」

 「それがさ、ほとんど会話は通じないんだって」

 「ウソ? じゃあ、どうやって一緒に暮らすのよ?」

 「会話が通じなくても、心は通じ合うんだって」

 また、二人は笑い合ったが、オレはやっぱり笑えなかった。


 オレはふらふらと立ち上がった。

 頭はボウッとし、営業カバンがやたらと重く感じた。


  ◆◇◆◇◆◇


 それから三週間後、穴倉ニュースは続報を伝えてきた。

 リポーターはキンキン平野、解説はウソマジの宮地である。

 「ねえ、宮っち。久美子の彼氏を覚えてる?」

 「ジェフでしょ」

 「ジョンよ」

 オレは心の中で『ジェイだろ』と突っ込みを入れた。


 「なんと、DVなんだってさ」

 「マジ!」

 「あんた、更衣室で気づかなかった? 

 久美子の肩と背中に、青あざがついてたじゃん。

 あたし、どうしたのって聞いたのよ」

 「で?」

 「彼氏の仕業だって、これがまた辛そうに話すのよ」

 「ウソ?」

 「機嫌が悪くなると、すぐに暴れるんだって。

 なだめるのも大変らしいよ」

 「マジ! でも、言葉が通じないんだよね。

 どうやってなだめてるのかしら?」

 「拳で語り合ってるんじゃないのかな?」

 「くくくくく」と笑い合う二人をぶん殴りたくなった。

 立ち上がって手にした営業カバンは、三週間前より、さらに重く感じられた。

 しかし、カバンと気持ちが、どれほど重くとも、ジェントルマンは仕事へ向かわねばならない。

 得意先を出て角を曲がると、前から吉沢さんの悲鳴が聞こえた。

 見ると、2メートル近い金髪の男が、吉沢さんの髪をつかみ「がってむ」や「さのばびっち」と叫んでいる。

 周囲に人気は無い。

 駆け寄ったオレは、金髪男の手首を鋭く蹴り上げ、吉沢さんを助け出した。

 「しっと」と叫んで殴りかかってくる男の手首を逆にとり、関節を極めたままアスファルトに叩きつけようとしたところで、馬鹿らしくなって、妄想を止めた。

 ため息ばかりが出てきた。


  ◆◇◆◇◆◇


 得意先での打ち合わせが長引き、外に出たときには午後の七時を回っていた。

 しかも、いつの間にか雨が降っている。

 雨足はけっこう強い。

 駅までは、少し距離がある。


 オレは道路を渡ったところにあるコンビニで、ビニール傘を買うことに決めた。

 そして、道路を渡り切った瞬間、細い道を飛ばしてきたワゴン車に、盛大に水溜りの水を浴びせかけられてしまった。


ワゴン車は停まらず、速度をあげて逃げていく。

 「ちくしょう」

 呻くように言ったとき、後ろから名前を呼ばれた。


 振り返ると、傘をさした吉沢さんが立っていた。

 逆の手にコンビニの袋をさげている。

 「だいじょうぶですか?」

 吉沢さんが心配そうに言う。


 妄想では無い。

 これは現実だ。


 「え、あ、吉沢さん。

 どうして、ここに?」

 オレが呆然として問うと、吉沢さんは軽く上に視線を向け、小さく笑った。

 「私、ここに住んでるんです」

 視線が示すのは、コンビニの上にあるマンションである。


 「あの車、ひどいですよね」

 吉沢さんは、かわいらしく怒った目で、ワゴン車が走り去って行った方向を睨む。


 「もし良かったら、上で少し乾かしますか?」

 「え、あ、う」

 妄想とは違い、現実のオレは、スマートな切り返しができない。


 「でも、あの……。

 だ、誰かいるんじゃ?」

 さすがに「同棲してるんじゃないの?」とは聞けなかった。


 妄想とは違い、現実のオレは、腕っぷしにも自信が無いのだ。

 ノコノコとついていって、金髪のDV男から、「げらうと」と蹴り出されたくはない。

 「一人暮らしです」

 吉沢さんは、無邪気に笑って言う。


 「い、行く。行きます」

 そう言ってから、慌てて「ありがとう」と付け加えた。


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