違和感のある部屋
七倉イルカ
第1話 吉沢さん
「私ね、一人暮らしをはじめたの」
後ろから聞こえてきた声に、思わず振り返りそうになった。
吉沢さんの声である。
オレにとっては、心地良く耳をくすぐる声だ。
うちの会社は、ビルのワンフロアを幾つかのパーテーションで区切って使用している。
オレの背後にもパーテーションがあり、その向こうは、給湯器とシンクが設置された、女子事務員たちの井戸端となっているのだ。
正確には、パーテーションだけではなく、半分は壁から突き出たビルの太い柱、そして、もう半分はパーテーションと、その反対側に背面を合わせる形で食器棚が置かれている。
その一角だけは、フロアの中で唯一、独立した穴倉のような作りになっているのだ。
そこに入ると安心感があるのか、ついつい女子事務員たちは、雑談に花を咲かすようであった。
その会話が、穴倉の突き当りの向こうに座るオレに、ボソボソと聞こえるていどの音量でとどいてくる。
オレは耳を澄ませた。
吉沢久美子は、オレが密かに恋心を抱いている事務員なのだ。
その彼女が、一人暮らしをはじめたというなら、重大ニュースである。
「場所はどこ?」
これは総務の平野の声だ。
キンキンと耳の痛くなる声だが、質問はナイスである。
「あのね、……なの」
オレは顔をしかめた。
ガチャガチャと陶器のカップを重ねる音と重なり、肝心なところが聞き取れなかったのだ。
「間取りは?」
平野は聞き取れたのだろう、残念ながら、次の質問になってしまった。
「2Kよ」
一人暮らしには、ほどよい広さである。
オレが住んでいるマンションも2Kである。
玄関を入ると、短い廊下があり、片側にドアが二つ並んでいる。
ひとつはトイレ、ひとつはユニットバスになっている。
逆側には、小さなキッチンがあり、突き当りの片引き戸を開けると、ソファとテレビを置いた部屋となり、ここはリビングにしている。
その奥の一室は、ベッドを置いた寝室である。
部屋があるのは、七階建てマンションの三階だ。
健康のため、疲れて帰宅しても、なるべく階段を使って部屋まであがるようにしている。
軽いステップで階段をあがり、自分の部屋のドアを開けようとすると、隣室の住人らしき人が、ドアの前で立ったまま、ポケットから鍵を出そうと悪戦苦闘していた。
まるでフランス映画のように、たっぷりと食材の入った大きな紙袋を抱えているため、ポケットに手が届かないのだ。
そうこうする内に、買い物袋からミカン……、いや、オレンジが転げ落ち、オレはそれを拾ってあげた。
「落ちましたよ」
「あ、ありがとうございます」
紙袋の向こうから顔を見せたのは、吉沢さんであった。
「あれ?」
「どうして?」
オレと吉沢さんは、驚いた顔を見合わせる。
吉沢さんが一人暮らしをはじめたマンションというのが、どういう偶然か、オレの隣の部屋だったのである。
「食材を買い過ぎちゃったから」という、ありきたりの言葉で、その日の夕食は、吉沢さんの部屋で、ご馳走されることになった。
一度、自分の部屋に戻ったオレは、手早くシャワーを浴びると、ラフだが小奇麗な服に着替えた。
そして、赤ワインを手土産に、吉沢さんの部屋を訪れる。
チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開き、彼女の部屋に招き入れられた。
2K。
オレの部屋と同じ間取りだ。
引越ししたばかりだろうに、綺麗に片付いている。
片付けた部屋は、これがオレの部屋と同じ間取りとは思えぬほど、広々と感じられた。
部屋は住む人によって表情を変える。これはオレの持論である。
この部屋は明るく微笑んでいるような部屋であった。
座っているだけで安らぐ部屋である。
吉沢さんの手料理を二人で食べ、オレの持ってきたワインを二人で飲む。
時計の針が午後九時を示すと、オレは「じゃあ、そろそろ、帰るよ」と立ち上がった。
「今日は泊まってもいいかい?」などとは言わない。
なにせ初めての訪問である。
これでもオレは、ジェントルマンなのだ。
そのとき、点けっぱなしのテレビから、臨時ニュースが流れた。
ナイフを振り回した男が、数人の通行人、駆けつけた警察官にケガを負わせ、逃走中だというニュースだ。
しかも現場は、この近辺である。
「怖いわ……」
吉沢さんは不安そうな目でオレを見ると、申し訳なさそうな目で言葉を続けた。
「あの、もし迷惑でなかったら、もう少し……」
もちろんジェントルマンであるオレは、吉沢さんの頼みを快く引き受け、今しばらく、彼女の家に滞在することになった。
「一人になると怖いから、今のうちにシャワーを浴びてもいい?」
「かまわないよ」
オレがうなずくと、彼女は恥ずかしそうに、クローゼットの収納ケースから着替えを出し、部屋を出て行った。
しばらくすると、シャワーの水音が聞こえてくる。
当然のことながら、オレは吉沢さんがシャワーを浴びる姿を盗み見たり、興奮して、その場に乱入したりはしない。
なぜなら、ジェントルマンだからだ。
彼女の方から、あられもない姿で、オレの方に飛び込んできてほしい。
だが、軽い女性はイヤだ。
そんなのは、オレの思う吉沢さんじゃない。
恥じらいを持ちつつ、彼女の方からというのが、ジェントルマンの理想である。
なので、オレは停電を起こすことにした。
プツンとすべての照明が落ちる。
吉沢さんの小さな悲鳴が聞こえると、バスのドアが開く音、そして慌てて、オレのいる部屋に駆け込んでくる音が聞こえた。
暗闇の中で立ち上がったオレは、軽くパニックになった彼女を抱きとめた。
「心配ない。ただの停電だよ」
彼女を落ち着かせるために、優しくそう言ったとき、電気が復旧した。
オレの腕の中には、小さなタオル一枚で胸元を隠した吉沢さんがいる。
「うむ」
オレは営業カバンを手に持つと立ち上がった。
ジェントルマンたるもの、公私のけじめをきちんとつけるのだ。
続きの妄想は、帰宅してからと決めたのである。
会社を出る前に、吉沢さんとすれ違った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
吉沢さんは、笑顔でオレに答えてくれた。
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