幕間
ぱちぱちと、火が
私はこの音を聞くと、とても安心した。弟の
あの時の味を、今もずっと忘れていない。命を繋いでくれた米に心底ほれ込んだのもその時だ。
だから、今日も元気に田を耕して――と思った所でふと気が付く。
――なんで爆ぜてるんだ? まさか私、灰を被せ忘れた!?
この家には
一瞬ぼやけた視界に映ったのは、
「なんじゃいね。起きるにはまだ早いよ」
「ち、千代婆……」
そう言われて窓の外を見ると、まだ日も明けてないのか真っ暗だった。けれど、そういう千代婆だって早起きすぎる気がする。
上掛けを着込みながら「千代婆だって早起きだよ」と唇を尖らせれば、「婆は早いもんさ」と歯抜けの顔で笑われた。
「急に起きさって。なんぞ悪い夢でも見たか?」
「ううん。良い夢だった。千代婆と
「よう言う。あんなもん、湯にほんのちょっと米入れた粗末なもんじゃ」
「でも、人生で一等美味しかったんよ」
ほんとだよ、と言い張れば、千代婆は何も言わず肩を竦めた。
「ところで、私ちゃんと昨日灰被せてた?」
「これのことかい。被っとったよ。早うに目が覚めたから部屋でも暖めようと
「あーよかった。私そのままにして寝ちゃったのかと思って慌てて起きたのよ」
「
急に褒められて、一瞬言葉を失った。じわじわと嬉しさが頬を上って来て、顔が赤らむのを見られるのが嫌で必要以上に囲炉裏に近づいた。
でも結局千代婆には見破られているので、「ほれ、火が飛んだら危ないから離れぇ」と手で追いやられた。
「丁度いいわい。神棚から神さんのお米下げとくれ」
「は~い」
大の字で寝ている大五郎父ちゃんと、寄り添うように寝ている小平太を踏まないように跨ぎながら神棚へ向かう。
神棚に供えられているのは白米だ。私が心底愛している白米が、小さな皿に供えられている。
それを祀ってる私達は
勿論、こんな少ない量で米を炊けるわけじゃない。近隣の農家で毎日二合だけ白米を炊き、それを神様に供えることを許されたから出来る事だった。
白米は基本的に年貢としてお殿様に納める必要がある。故に私達百姓は米を育てた所でその殆どを持っていかれるわけだが、その中で一部の米だけが惣村の纏め役である
ここら一体を収める
「米は武士の
けれど、千代婆が言うには「ありゃ秀治様の温情じゃ」ということらしい。
曰く、米を頑張って育てている百姓達から年貢を取りすぎだという父への反抗とのことだった。神へ捧げるという大義名分のもと米を分け与え、供えるもつまみ食いするも好きにせいというつもりでいるらしい。実際視察に来た秀治様の側近の年若い侍から、「内緒だぞ」とこっそり教えられたのだとか。なんとも
そんなわけで、我が家の神棚には今日も白米が供えられている。なんと、昨日から二膳だ。
年のせいでいよいよ身体が思うように動かんと長らく床に
昔取った杵柄と言わんばかりにもりもりと畑仕事に精を出し、たまたまやってきていた
「きっと実りの神様が千代婆のこれまでの働きぶりをご評価してくださったのだよ」とは乙名の言葉で、よくよく礼を尽くすようにということで小さな皿とはいえ捧げる白米が小さな皿で二膳に増えたのだった。
増えた、ということは私達が食べられる白米も増える。一日ごとに新しいものと変えられる白米は、古くなった方を朝餉に食べる習慣となっていた。稗と粟の雑炊に入れられる白米の割合が増えたことで、私はほくほくしていたのだ。
そんな気持ちが見抜かれたのだろう。雑炊の準備を始めていた千代婆から「そんな米の事ばっか思っとらんで、まずは神様にお礼言っておいで」と呆れたように笑われた。
まったくもってその通りだ。神様のお力で千代婆が元気になり、我が家の米も増えたのだ。しっかりお祈りせねばならない。私は千代婆に皿を渡すと、もう一度神棚に戻ってきっちり二礼二拍手をとり、目を閉じて祈りを捧げた。
「実りの神様、ありがとうございます。私達は今日も元気に田を耕し、米を育てますので、どうかお見守りください」
「うむ、見守っておるぞ」
はた、と身体が固まった。
千代婆か、はたまた大五郎父ちゃんか小平太の悪戯か。そんなことを思いつつ、ふっと瞼を開ける。
私の目の前にいたのは、真白い
灰色がかった髪は揺蕩うように頬から下まで長く伸び、頭の上には烏帽子のような物を被っている。尋常ではないと思ったのは、その男の上半身が神棚から飛び出ていることだ。
「……っ! ……!?」
千代婆を振り返り、男を振り返りと何往復もするが、私も千代婆も言葉が出ない。口だけがはくはくと動いて、声が出せないのだ。そのことに気が付いたのか、男が真白の扇をぱっと開き、紅を引いたような赤い口を隠してくすくすと笑った。
「いや、すまぬな。あまり大事にはしたくないので静かに頼む」
「……!?」
「とある尊きお方より、
「…………」
「かの者の忠と義を疑うな。
男が扇をぱちりと閉じた。その途端声の伴った呼吸が出来たので、頭に思い描いていたものが「あの!」と勢いよく口から飛び出す。
「こ、これ楓! 下がりぃ……!」
「あの、神棚から来られた貴方は、どちら様で……」
その言葉を受けて、目の前の男が片眉をぴっと楽しそうに上げた。「おや、私としたことが名乗りもせなんだ」とからからと笑い、ぬっと神棚から全身を引きずり出す。
「とはいえなにせ異称が多い。そうさな……。
「お、お、
「左様!」
「その様に呼ぶが宜しい」と笑った途端、大年神様の全身が薄く透き通った。
「どぁっ、えっ!? ちょ……!」
「では娘。楓、と言ったか。宜しく頼むぞ」
「いやあの待っ」
私の制止も虚しく、目の前でふっと大年神様が消え失せる。
信じられない事態だが、私だけじゃなく千代婆まで同時に目撃してしまったというのがまずい。変な夢で済ませられない。
「八神秀治に伝えよって……秀治様のことよね?」
「うちの若殿じゃあ……」
呆然としながら千代婆のいる囲炉裏まで戻り、私はぺたんと座り込んで蹲った。
「神様から若殿への伝言って! 百姓ごときにどないせいっちゅうんじゃーーー!」
「信じて貰えるわけないじゃんー!」と嘆く私の肩を、溜息を吐いた千代婆が優しく撫でさするのだった。
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