第11話
スイにとって、息が止まりそうなことの連続だった。
ライラの魔物化に加え、ヨルムンガンドにいるはずのカルナヴァーンの来襲。手は出さないと宣言したハーデスを引き込み、共闘に至らせた破格の剣士、十兵衛。
見たことも聞いたこともない魔法や蟲達が眼前を飛び交い、その全てを完封してついには七閃将をも討ってみせた二人に対し、最早言葉も出なかった。
実のところ、スイはほとんど戦闘経験がない。魔物との戦いもさることながら、最前線で人を守りながら奇跡を保つなど今までしたことも無かったのだ。
相当肩に力が入っていたのか、腕を上げたまま障壁を張り続けた身体がぎしぎしと悲鳴を上げている。冷え切って真っ白になっていた指先をぴくりと動かし、力を抜こうとした時だ。
「神官様……」
アイルークと共に後方に控えていたアレンが、窺うように声をかけた。その声にいつもの自分を取り戻したスイは、ゆっくりと深呼吸をして【断絶の障壁】を解除した。
「大丈夫ですよアレン君。呼び出された
スイの見立て通り、いくらか残っていた模倣生物達はぽとりぽとりと大地に落ち、やがて光の粒子へと変わり消えていった。その影響は、カルナヴァーンが召喚した『人が変じた魔物』にも表れた。
寄生虫は、カルナヴァーンの作った模倣生物である。彼らが補っていた身体の器官が失われ、多機能不全となった魔物達は徐々に息を引き取っていった。
その言葉を聞いて、急に十兵衛が駆け出した。向かったのはライラの元だ。
駆け寄ってきた十兵衛にスイは賛辞と感謝の言葉を述べようと思ったが、倒れ伏しているライラに手を伸ばした姿を見て、はっと口を噤む。
十兵衛はライラの首に手を当て脈を確認して腕に抱くと、「アイルーク殿、マリーを」と声をかけた。
彼の意図する所に気が付いたアイルークは、マリーを己の腕から解放した。
身の震えがまだ収まっていないマリーだったが、呼吸を整えライラの元へと走り寄る。
眠るように目を伏せる異形の母の頬を、マリーは優しく、優しく撫でた。
「……たくさん、たくさんありがとうママ。離れてたって、ずっとずっと大好きよ」
大きな瞳に涙を湛え、頬に一つキスを落としてマリーは離れる。それを見届けたアイルークが、そっとマリーを抱き上げた。
「お願いします、十兵衛さん」
目礼をしたアイルークが、十兵衛にすべてを託す。
言葉なく頷いた十兵衛は、ライラを抱え、戦禍の残る地を越えた先にある花畑へと移動した。
薄青色と白の花々が、風に揺られて花びらを散らす。空へと巻き上がるその光景を眺めながら、腕の中のライラを優しい眼差しで見つめる。
「もう、大丈夫です。おやすみなさい、ライラ殿」
その言葉に応えるように、ふっと上下していた胸の動きが止まった。
抱えていたライラが、急に重く感じる。
その重みの理由を察して唇を引き結び、ゆっくりと静かに目を閉じた。
黄泉への旅立ちだ。
先を行く彼女を思い、十兵衛は万感の思いを込めて深い祈りを捧げるのだった。
***
棺に眠るライラは、彼女の望み通りの姿だった。綺麗な切り口で胴体から首が離れており、その傷を隠すように色とりどりの花々が並べられていた。
ライラは、湖の方より連れ帰ったスコットと並べるように埋葬された。彼女に施す介錯について「遺体に何もそこまで」とオルドアが止めかけたが、「ライラ殿が望まれたんだ。俺は、彼女が安心して眠れるように努めたい」と語る十兵衛の思いを汲み、約束は果たされた。
それは、カルド村で結ばれた最後の約束だった。
厳かな葬儀を見届けて、十兵衛はそっとその場を離れる。
湖へ続く道は、月明かりが照らしていた。夜道を煌々と照らしてくれる月の存在に「こちらにもあるのか」と感慨深く思う。朝方走っていた道をのんびり歩いて辿ったが、そこそこに距離があったことに今更ながらに気が付いた。
疲労困憊だった。
八神城から連戦に次ぐ連戦だ。言語知識の習得で吐いた後から胃は空っぽで、水くらいは摂取したがそれだけだ。眠気も相俟って意識が朦朧とする。
ようやくはじめに訪れた湖へと辿り着いた十兵衛は、ぺたん、と尻をついて座り込んだ。
ごそごそと懐を探り、
「何故、自ら死を選ぶ?」
ハーデスだった。
姿が見えないとは思っていたが、追って来ていたのかと内心で溜息を吐く。
もう言い返す余力もなく、「選ばせてもくれないくせに」と苦く笑って俯いた。
「……俺の国ではな。己の意志で死を選ぶ切腹は、自身のみならず一族の名誉を保つ行為でもあるんだ」
「……名誉」
「殿に任された城を守れなかった。内通者がいたことに気がつけなかった。幸いにも殿達は
「…………」
「だから俺は――俺達は、切腹を選んだ。介錯もない、苦しみ抜いて死を迎えたその死にざまは、贖いと一族の潔白を強く示す事が出来る。憎い敵方である
「……ありがとう、十兵衛」
穏やかな声色で、ハーデスが感謝の言葉を述べた。同時に、懐刀を持つ十兵衛の手に両手を重ね、少し力を込めて握りしめる。
アレンやライラに向けたものと同じように感謝されたということは、彼の問いに則した答えが出せたという証だ。それを思い、ようやく無病息災の呪いを解いて貰えるか、と思った矢先。
「そして――すまない。私は、今のお前を日本に戻せない」
信じられない言葉が、ハーデスの口から零れ出た。
「嘘だ」
呆然と顔を上げた十兵衛に、ハーデスが眉根を寄せて「真実だ」と告げる。
「……どうしてだ。どういうことだ。俺はお前の問いに答えただろう。だったら術を解いて元の場に戻すのがお前の果たすべき役目だろうが!」
「すまない。私の落ち度だ」
「欲しいのは謝罪の言葉じゃない!」
瞳を震わせ肩で息をする十兵衛の前で、ハーデスは言葉にすることを迷っているのか幾度か口を開きかけ、やがて覚悟を決めて力強い眼差しで十兵衛を見た。
「……魂は、輪廻転生をする」
「今聞きたいのはそんな話じゃ」
「聞いてくれ。お前が日本に帰るに至る話だ」
その言葉に、はっと息を呑んだ。十兵衛の手を固く握りしめながら、ぽつぽつとハーデスは語る。
「生まれた地で、魂を保有する命は幾度も輪廻転生を繰り返す。命数は様々だが、一つの生を終える度に成長していくものがある」
「成長……」
「【ハイリオーレ】――魂の装い。好意、感謝、尊敬、憧憬といった、善に傾く思いの力。それらを自分以外の誰かから受けた時、魂はハイリオーレを装うように纏わせる。幾度も輪廻転生を繰り返した魂はハイリオーレを大きく纏い、やがてその一部を翼に変えて
「それが、次元を超えるということなのか」
十兵衛の問いに、ハーデスが深く頷く。
「次元を超えた魂は、残ったハイリオーレを核と成して魂自体を大きく育たせ、またその地で輪廻転生を繰り返す。そうしていつか、大いなる魂を得るに至るというわけだ」
「…………」
「今のお前の魂は、すでに高次元領域に至る分の大きさにはなっている。必要なのは、ここより飛び立つ翼分のハイリオーレだ。翼と変わるハイリオーレは同次元軸に在する者から得るしかない。だから、私は今のお前を日本には戻せない」
「超越者のくせに」
顔をしかめる十兵衛に、ハーデスは困ったように眉尻を下げた。
「律の管理者だからこそだ」
「…………」
「私は、死という事象しか見ていなかった。死の後に生じるものにまで目を配れていなかった。
「だから」とハーデスは真摯な表情で告げる。
「お前が戻れるよう、私は私の出来る限りを尽くすと約束する。祝福もそうだ」
「……今更……。あの場に俺の遺体が無いこと自体が、もう」
「それとてなんとかしてみせる。必要であれば日本の神にも協力を要請して」
「えぇ……」
急に規格外のことを言い出したハーデスに、十兵衛は白い目を向けた。だが当の本人は本気なのか、「本当だ! 私は嘘は言わない!」と必死に言い募る。
「お前の覚悟も尊厳も必ず守る。信じて欲しいといって信じられるはずもないだろうが私はっ」
「……ハーデスの」
遮られた言葉に、ハーデスは口を噤む。俯いた十兵衛が、固く握られている手に目線を落とした。
「ハーデスの死に対する姿勢は、信用している」
「十兵衛……」
「お前、自ら死を選ぶ者に問いはするくせに止めはしないだろう」
はっとした。
目を瞠ったハーデスに「ま、問いの途中だった俺は止められたがな」と苦笑した十兵衛が、顔を上げて視線を合わせる。
「尊重されてると思った。熟考した上でそれしか選べなかった俺達のような存在に、愚かだと蔑むことも、生きろと安直に望むこともしなかった」
「…………」
「顔だけは、語りすぎていたがな」
「……なんと言っていた?」
口角を歪めるハーデスに、「やるせない、と」と十兵衛は優しく微笑んだ。
「――お前の約束を、信じるよ。合わせて、俺も約束する」
「お前も?」
「付き合って欲しいんだろう? 自ら死を選ぶ者の心を、お前が理解するその日まで」
それは、ハーデスが十兵衛に無病息災の祝福をかけた時の言葉だった。
朝方のことを思い出し、ハーデスは唇を噛み締めて深く頷く。
「お前には配慮が足りない。間に立つぐらいの仕事はしてやるさ」
「……その点については、お前に言われたくない」
「よく言う」
満天の星空の下で軽く笑いあい、ようやく手を離したハーデスが静かに宙へと浮いた。
不思議そうに見上げる十兵衛に、「スイが心配していてな」と聞かれる間もなく答える。
「寄生虫の消滅に伴って亡くなった多くの者達に、導きの祈りを捧げられるか案じていた。それぐらいなら、私が魂達を送ってやってもいいと思ったんだ」
「黄泉に送るということか?」
「ああ。お前の星と違って、この星は役目を果たしていないからな」
話し終えたハーデスが、腰の高さで両手をゆっくりと空に向ける。
「命の限り、実によく生きた。次の命も、諸君らのよき生に繋がるよう」
低く優しい声色で、賞賛するように一つ一つの命を讃える。
細めた目は慈しみに満ちており、神もかくやの在り様に十兵衛は息を呑んだ。
「どうか、よい旅を」
ぱん、と、ハーデスの手が合わせられる。
次の瞬間、夜空に流星が走った。
空から大地に注ぐのではなく、大地から空に飛び去るような、光の軌跡。
それは幾百、幾千、幾万の輝きで夜空を彩り、見る者の心に鮮烈な印象を与えた。
その光の一つ一つが、魂である事を知っているのは、ここにいるハーデスと十兵衛の二人だけだ。命の輝きとはこうも美しいものなのかと、十兵衛は頬に滑る涙をそのままに静かに夜空を見つめた。
――いつか自分が黄泉の国へ旅立つ時も、こんな風に送られるのだろうか。
いずれ来る未来に思いを馳せ、十兵衛は先んじて旅立った友のことを思い、心から安寧の祈りを捧げるのだった。
そんな彼の側で、ハーデスは空を走る一つの光をじっと見つめ、優しい笑みを浮かべる。
あたたかな色合いの光だ。柔らかな軌跡を放つそれを目で追いながら、心から彼女の旅の行く末を祝福した。
――よい旅を。ライラ。
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