第9話

 あの勢いで叩きつけられたとなると、内臓や背骨の損傷が心配だった。即座に駆け付け治療を施したかったが、己の背には守るべき人がいる。

 十兵衛の安否が心底気にかかったが、この場で唯一の高位神官であるスイは、黄金に光り輝く【断絶の障壁】の維持を冷静に努めた。

 ライラの娘を呼ぶ声は、魔物が人をおびき寄せるためによく使う手だった。

 彼女をむしばむ寄生虫が使えると踏んだのだろう。魔物の知識にうとい者達を責めることなど出来るはずもない。ただ、彼らを守るべく万が一のために張った障壁が今は功を奏していた。――カルナヴァーンが放ったと思われる風魔法が、ライラの拘束を解いたからだ。

 解放されたライラは精神までも魔物と変じてしまったのか、怖ろしい形相で障壁を破壊しようと殴り続けていた。

 母のそんな姿を見せられるはずもなく、アイルークは咄嗟にマリーを強く抱きしめ視界を塞ぐ。

「十兵衛、ライラおばさん……!」

 アレンの震える声に、スイは唇を噛み締めた。

 十兵衛を蹴り飛ばしたのはライラだった。寄生虫の操り主であるカルナヴァーンが操作したのか、一切の躊躇なく人の急所である腹部を蹴り飛ばした彼女の姿にスイは胸を痛める。人を傷つけたくないと語ったライラの優しさを思えば、なおのことだった。

「【断絶の障壁】か。まさかこんな所に高位神官がおるとはな」

 障壁を殴り続けるライラの隣に、ゆっくりと歩み寄ってきたカルナヴァーンが立った。三百ミメル近い悍ましい魔将に障壁越しに睥睨され、スイは身体を震わせる。

 魔王麾下の名立たる猛将、七人の内の一人――蟲道こどうのカルナヴァーン。自身の魔力を体内に住まわせている虫に食わせ、寄生虫として発現。人に寄生させることで魔物化させ、配下を増やす悪辣非道あくらつひどうの魔将である。

 引きずるように伸びて爛れた皮膚は、体内の虫が外に飛び出る度食い破られるのを戻すのも面倒だと放置した故のもので、その姿形はアンデッドに近い。身に纏うのはぼろぼろに擦り切れた黒衣のローブのみではあったが、それはかの者が防具を必要としない程卓越した魔法使いであることの証左だった。

 加えて異質なのは、カルナヴァーンが大曲剣だいきょくけんを背に負っている所である。

 魔法使いは接近されると弱いというのが世の常識だった。唱えた魔法に自身も巻き込まれる可能性があるため、近距離での発動はご法度とされていたからだ。故に魔法使いは相手に距離を取らせられるひょうやダガーなどの投擲出来る武器を備えるのが基本であったが、カルナヴァーンは違う。重量級の大曲剣を扱うことはすなわち、鈍重な戦闘スタイルをも厭わぬ破格の強さの表れだった。

 剥き出しの歯を見せながらカルナヴァーンは嗤う。いくら【断絶の障壁】が魔物も瘴気も通さないとはいえ、スイはその場から一切動けない。女神の権能と力の証明であるそれは対魔物に対しては最強の防御障壁であるが、武器も魔法も防げるというわけではないのだ。

 それを熟知しているカルナヴァーンは、可笑しそうに嗤いながらスイの眼前で身を屈めた。

「何、案ずるな。殺しに来たわけではない。気が済むまで障壁を張ると良い」

「っ……!」

「お前達を死なせるのは容易たやすいが、そうすると儂の配下ではなく死霊術師のものとなるからな。エルミナばかりにやるわけにはいくまいて」

「何故こんな内陸部に……!」

 憎悪の眼差しで見上げるスイに、カルナヴァーンは片眉を上げた。

「内陸部? ああ、昨今は海側で寄生虫をばら撒いていたからか」

「は……?」

 スイは驚愕に目を見開く。まさか超高高度こうこうどより飛来した魔物が撒いたのではなく、カルナヴァーン本人がやったのかと信じられない思いに身を震わせた。

「嘘です! だって、強大な魔物ほどレムリア海は越えられない!」

「精神を狂わされるからなぁ。その認識はあっておるとも」

「なら何故っ……!」

「クハハ。常識に囚われすぎではないか? 高位神官」

 哀れむようにカルナヴァーンは眼窩がんかに浮く赤眼を細める。「どの地にも、非常識なやからはいるものだ」と腕を広げられ、スイは思い至った答えに頭から血の気が下がって真っ青になった。

「招いた人間が、いるっていうのかよ……!」

 スイが脳裏に浮かべた仮説を、アレンが震える声で言葉に出した。それを耳にしたカルナヴァーンは、赤黒く爛れている細長い指を口元にあて、「しィ……」と沈黙を促す。

「滅多な事を口にするものではないぞ少年。愚かな人間達は常日頃から争いの火種を探しておる。例え同族であってもな」

「こいつ――っ!」

 カルド村の人々を魔物に変えたカルナヴァーンに、アレンは憎悪を募らせる。手近にあった石ころを握り、投擲しかけたその時。

「なるほど。よくもまぁ揃えたものだ」

 ハーデスの声が聞こえた。上空からだ。カルナヴァーンを含めた全員の視線が、障壁の外で浮くハーデスに集まる。

「揃える……?」

「ライラと同じような魔物が五百。南西のロキート村方面からこちらに向かってきている」

 その言葉を聞いた瞬間、アレンは握っていた石ころをぽろりと取り落とした。

 魔物が、五百。

 それは、アレンが助けを求めにいった隣村――ロキート村の総人口だった。

「嘘だ……」

「私は嘘はつかない」

「嘘だ! 嘘だって言ってよ! だって、そんな……!」

「真実だ」

 にべもないハーデスの言葉に、アレンの目に大粒の涙が浮かんだ。助けを求めにいった村の方が先に滅んでいたなど、信じたくもない事実だった。

 呆然自失となったアレンの腕を引っ張り、アイルークがマリーと一緒に抱え込む。

 ライラの時といい今といいハーデスの言動には思う所が多々あるが、ぐっと悪態を飲み込んだアイルークは「ハーデスさん! お願いだ!」と声を張り上げた。

「【飛翔フライ】の魔法が使えるということは、魔法使いなんでしょう!? 無茶なお願いとは重々承知です! どうかカルナヴァーンを貴方の魔法で……!」

「魔法で、なんだ?」

「っ……! 殺してくれ!」

 血を吐くようなアイルークの叫びに、ハーデスが困ったように腕を組んで小首を傾げた。

「……容易よういに可能だが、無理な願いだな」

「へ?」

 スイの目が大きく見開かれる。同様に、アイルークも信じられないと言わんばかりにあんぐりと口を開いた。「容易に可能」と「無理」が混在する言葉の意味がまったく分からない。そもそも、七閃将を容易に殺せるとけろりとした表情で言い放った事も理解不能だった。

「ど、ど、どうして」

 目を白黒させながら問うスイに、「収束する数多の結びの可能性が、偶発的事象から必然的事象に変わりやすいからだ」とハーデスがすらすらと告げる。

「魔物だろうが人だろうが関係ない。特殊な事情が絡まぬ限り、私が直接命を奪うことは無い」

 静謐せいひつさを湛えるような声色で語られ、スイは胸中に渦巻く気持ちをどう表現していいか分からなかった。

 状況を脱する事の出来ない自身への憤りか、ハーデスへの憎しみか。様々な激情が沸き起こり、そのどれもが今発現するべきでないという僅かばかりの理性で押し止められていた。

「見上げた考えを持っておるな」

 そんな中、宙に浮くハーデスにカルナヴァーンが煽るように拍手した。

 拍手を受けたハーデスが、きょとんとした表情でカルナヴァーンを見つめる。

「人の身でありながら絶対安置の奇跡にも逃げ込まず、この状況下で博愛をのたまうとは。不相応な名といい、なんとも愉快だ」

「人ではないからな。必要と感じないだけだ」

「世迷言を。エーテルも無いくせに強く出たものだな」

 先んじてハーデスのエーテルを見て「無い」と判じていたカルナヴァーンは、あの傲岸不遜ごうがんふそんな発言が口だけだということを見抜いていた。だが、当のハーデスは指摘された上でも「エーテル? ……あぁ」と油断した態度を変えもしない。

「神力や魔力の通称か」

 ハーデスは顎に手を当てて担当官からの報告を思い出す。

「生物に在する生命エネルギーの余剰分を力と成し、よそおいの大きさで上限を定め……だったか」

「は?」

「で、お前達は生まれながらにして魔眼まがんを持ち、彼我ひがの実力差を測れると。その理屈で考えると、お前の見解は間違っているな」

 根底から否定された事に対し、カルナヴァーンは「何……?」と苛立たしげに顔をしかめる。

 ハーデスは宙に浮きながら器用に座って足を組むと、頬杖をついて地上にいる者達全てを睥睨へいげいした。

「例えるなら……そう。空気がお前達に見えるのか?」

「なんだと?」

「この世界、上下の世界、そして律の管理する全ての次元において、あまねく律は『在る』からな。内に生きる者が外周を見られぬのは、仕方のない話だ」

 この場にいる全員が、ハーデスの言葉を上手く呑み込めなかった。

 けれども、カルナヴァーンを前にして微塵も警戒しない様子が、その存在が七閃将よりもよほど高位の存在であると暗に告げる。それを察して不快そうに鼻から息を吐いたカルナヴァーンは、「手出しせぬと言うならそれで良い。黙ってみておれ」とおもむろに右手を上げた。

 瞬間、魔将の腕から極小の黒々とした蟲が大量に発生した。ライラ達を魔物と化した寄生虫だ。

 ぞっと背筋を震わせるアイルークの前で、未だ障壁を殴り続けるライラの頭上に寄生虫が集まる。

「ここにいるのは、神官が守っている村人だけではないのだろう?」

「まさか……!」

 カルナヴァーンの言う通り、この場にいない村人がまだ多く存在した。オルドアが必死に声をかけて集めてはいるが、ここより離れた場所に住む者や墓地で埋葬作業をしている者達には至っていない。

 一刻も早くこの奇跡の中へ連れて来なければと思うも、ライラへと向けるカルナヴァーンの命令が早かった。

「ここはよい。お前の愛した村へと向かい、仲間を増やしてこい」

 命令を受けたライラが、両腕をだらりと下げて障壁から離れる。

「ライラ! 駄目だ、やめてくれ!」

「ママ……!」

 アイルークの声も娘の声も聞こえないかのように、ライラは村へと歩き始める。

 打つ手がない。余りの事態に、スイはあえぐように息をしながら、祈るような気持ちで十兵衛のいると思われる方へ視線を向けた。

 木々の薙ぎ倒された枝葉の先。濛々とけぶる土煙が周囲を漂う。

 それがふいの風から流され、おもむろに晴れた向こう側に。


 十兵衛の姿は、無かった。


「っ! おい!」

 咄嗟に声を上げたカルナヴァーンより早く、ライラの首に衝撃が走る。物陰から飛び出した十兵衛が、ライラの首へ向かって手刀を決めた。

「十兵衛さん!」

 喜ぶように声を上げたスイに、障壁の向こう側で土で頬を汚した十兵衛が軽く頷く。

「すまない。みっともない所を見せた」

「そんな事……! そんな事ないです!」

 その言葉に小さく微笑んだ十兵衛は、意識を失いふらついたライラを肩で支えると、そのままゆっくりと地に横たわらせた。

 そうして膝をつき頭を垂れ、手刀を当てた首へ労わるように手を添える。

「俺の迷いのせいで、いらぬ心痛を味わわせて申し訳ない。だが、ライラ殿との約束は必ず守る故」

 瞬間、十兵衛の身に、側にいる者が皆総毛だつような殺気が纏われた。

 腰に差した打刀の柄に手をやると、十兵衛は数多つどう蟲の向こう側、討つべき敵を鋭く睨みつける。

「今しばし、現世にてお待ち頂きたく」


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