第6話
人の身で魔物を容易に投げ飛ばすなど、普通は出来ない。信じられない光景を目の当たりにして呆然自失となった面々の中で、真っ先に我を取り戻したのは翡翠色の髪の少女だった。
「【癒しの風】!」
祈りを捧げるような動作で拳を胸に抱き、凛とした高い声で何かを唱える。瞬間、暖かな風と共に新緑の色を宿した光が輝き、辺り一面に吹き荒れた。
それを受けた十兵衛は、思わず目を瞠った。先の戦いで魔物につけられた頬の傷から痛みが引き、八神城の戦いで負っていた火傷がみるみる内に治ったのである。同時に彼女の後ろにいた負傷者達も自分の怪我が治ったことに気が付き、攻防揃った救援がきたことにわっと歓声を上げた。
「剣士様、神官様、ありがとうございます!」
「すごい、一瞬で……!」
対して、魔物達は苦悶の声を上げていた。十兵衛に引き倒されていた魔物などは、首を掻きむしるようにして苦しんでいる。
「神官……」
アレンの話に出ていた、神に仕える者――神官。それが目の前にいる少女なのかと、十兵衛はこちらを見る空色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「君! ありがとう!」
そんな時だ。傍に立っていた赤毛の男が声をあげる。十兵衛が男に目を向けると、その相貌にどこか既視感を覚えて思わず息を呑んだ。まさかと思った所で、「父ちゃん!」とアレンの声が上がる。
推測は当たっていたようだ。ハーデスの手を離れたアレンが父を呼びながら駆け寄り、腕に力を込めて抱き着いた。
「アレン!? お、お前今までどこに!」
「隣村に助けを呼びに行こうとしたんだ。そしたらスコットおじさんに追われて……」
「えっ!?」
「十兵衛が助けてくれたんだ。だから俺は、大丈夫!」
息子の言葉に目を白黒とさせる父に、十兵衛は「アレンの親父殿か」と声をかける。
「あ、あぁ。アイルークという。十兵衛さん、本当になんとお礼を言っていいか……!」
「構わない。それより」
「手を貸して頂けるのですか」
アイルークとの会話に、少女が介入した。厳しい表情を浮かべる少女に、十兵衛も意識をそちらに向ける。少女とはいえ神に仕える者だ。
「神官とお見受けします。相違ないでしょうか」
「はい。ルナマリア神殿所属の高位神官、スイと申します。剣士さん、ご助力願えますか」
「どうぞ、十兵衛と。まず何を願われる?」
「討って下さい」
端的な答えに、十兵衛もアイルークも目を丸くする。討つとはつまり、と、未だ大地でのたうち回って苦しんでいる魔物におもむろに視線をやった。
「【癒しの風】は一番低位の治癒の奇跡です。それでこれほど苦しむのであれば、もう、手の施しようがない」
「……人には戻せない、と」
アレンもアイルークも、そして会話を聞いていたカルド村の人々全員が言葉を失った。
神官が駆け付けてくれた事で、何もかも助かったと思っていたのだ。そんな一縷の望みがその神官本人から打ち砕かれたことに、信じたくないと大きく肩を震わせる。
「し、神官様! 他に手は無いのですか!」
「ルナマリア神殿から来たのですよね!? カガイ神官長にもご助力願えれば」
「カルナヴァーンの寄生虫は!」
反論を封殺するように、スイが声を張り上げる。震える声色と潤んだ瞳に、十兵衛は彼女がこの場にいる誰よりも重い覚悟で立っている事を知った。
「カルナヴァーンの寄生虫は、人の構造を元より変えるんです。奇跡は人を治しますが、魔物には強烈な毒となる」
「毒……」
「人である部分が無くなってしまえばもう、奇跡で彼らは救えない――!」
瞬間、宙に血飛沫が舞った。
十兵衛の振るった打刀が、倒れて苦しんでいた魔物の首を真っ直ぐに両断したのである。
絶句したアイルークは、無意識にアレンを引き寄せ彼の目に映らないよう強く抱きしめた。
「――元より、そのつもりだった」
静かな声色で、十兵衛が語る。
「苦しませたくないと。人であった時の彼らの望みを果たしたいと、そう願われた」
「十兵衛さん……」
「ご安心召されよ。業は私が背負います」
場にそぐわない程優しく微笑み、魔物に相対するべく十兵衛が前に出る。
そんな彼の背を見つめたスイは、気持ちを切り替えるように目元を拭い、一歩踏み出して並び立った。
「いいえ。高位神官として救済の可不可を判じたのは私です。負うならば、共に」
◆◆◆
「手が魔物に変じた、と?」
カガイ・アノック神官長の言葉に息も切れ切れの男が頷くのを、その時のスイは固唾をのんで見守っていた。
【慈愛の女神レナ】を主神として奉じるルナマリア神殿は、王都に建つステラ・フェリーチェ大神殿に匹敵する規模の神殿である。腕利きの神官や高位神官が揃い、高名なカガイ・アノックが率いるそこは、レヴィアルディア王国南西地方における最大級の医療機関でもあった。
カルド村から緊急の救援要請があったのは、神殿の業務が終わる夕方頃だった。ルナマリア神殿のあるリンドブルムより西に三十万ミール離れているカルド村は、
「一応、立ち寄った町の教会でも診て頂けるか伺ったんです。ですが、高度な奇跡が必要になるのでルナマリア神殿に助けを求めろと」
「…………」
「ギルドが定期発行している冒険録で、読んだことがあります。やはりあれはカルナヴァーンの寄生虫なんですよね!? どうか助けて頂けませんか!」
「……カガイ神官長……」
心配そうに窺うスイの視線の先で、カガイは細い指を顎に当てて考え込むように目を伏せていた。
七三分けに几帳面に分けられたグレーの頭髪の上には丸みを帯びたひし形の冠が乗っかり、痩せ気味で小さな背丈の彼にしては少々大きい。幅広の眼鏡をかけ、白地に金糸で鮮やかな刺繍の施された祭服を身に纏ったカガイは、やがて細く皺のよる手を招き、後ろに待機していた長身の神殿騎士を呼んだ。
「シュバルツ」
「はっ」
「ディオネの町にいるガラドルフを呼び戻しなさい。彼に向かわせます。カルド村へはチームを組んで行かせますので、冒険者ギルドにも連絡を」
「畏まりました」
「カガイ神官長!?」
スイは思わず声を上げた。カガイが選出した面々は、とても人を助けに行く面子ではなかったからだ。
魔物と変じかけている人の治療で抑える人材が必要なのであれば、神殿騎士で事足りる。伝令に来てくれた村人が言う通り患者が十一名だというなら、治療に必要な適切な人員は高位神官一名と神殿騎士が五名だ。
それを、対魔物特化騎士である
「討伐隊じゃ、ないですか……!」
声を震わせる男に、スイが固く目を瞑る。同じ考えに至っていたからだ。
指令を受けて退出していったシュバルツを目線で見送りつつ、カガイは当然といった風に鼻を鳴らした。
「討伐隊ですよ。当然でしょう? 手が魔物に変じたのであれば、それはもう人ではない。人類の敵、魔物です」
「違う! まだ彼らとは会話も交わせてるんだ! 診てもいないくせにそんなことっ……」
「君、職業は何を?」
急なカガイの問いに、勢いを削がれたように男は呆けた。「き、木こりですけど」とへどもどとして言う男に、カガイは「そうですか。私は神官長です」と至極当たり前の事を述べる。
「だ、だからなんだって」
「木こりの君ではなく、長年神官を務め神官長まで上り詰めたこのカガイ・アノックが判じたのです。それはもう、魔物であると。その意味が理解できないと?」
「――っ! せめて、診てからでも……!」
「必要ありません。時間の無駄です」
ぱん、と手を打ち鳴らす。カガイの合図を受けて、別室にいた神官と神殿騎士が集い、側に控えた。そんな彼らにカガイが「極度の疲労状態です。療養所へ」と男の身柄を預ける。
「待ってください、カガイ神官長!」
「話は終わりました。どうぞ、養生していってください。もちろん、治療費は請求しますが」
「カガイ神官長!」
連日の強行軍のせいでまともに動けない男が、神殿騎士に担がれて去っていく。涙声でカガイの名を呼ぶ声がはるか遠くになったところで扉が締められ、祈りの間には元の静けさが取り戻された。
「おや、スイ。まだいたのですか」
呆れたように肩を竦めたカガイに、スイは言葉を紡ごうとして口を噤む。先んじてカガイが制したからだ。
「今日の業務は終了しました、お疲れ様です」
「……っ貴方は……!」
「残業もないのに残業代など出ませんよ? さっさと帰りなさい。……それから」
「短慮は、くれぐれも起こさないように」と釘を刺し、カガイが退室する。
その背を睨みつけながら、スイは胸の内で煮えたぎる激情を堪えるべく、きつく歯を食いしばるのだった。
◆◆◆
十兵衛の振るう白刃が、一撃で魔物達の命を奪う。彼にすべてを任せることなく奇跡を唱えたスイは、「【聖なる波動】!」と純白の閃光と共に対魔物特化の高密度の衝撃波を放ち、一瞬の後に絶命させた。
――カガイ神官長の見立ては、間違っていなかった。
内心でそう呟き、スイは唇を引き結ぶ。
「診てもいないくせに」と泣き叫ぶ男を慮り、スイはあれからリンドブルムを奔走した。どうにかカルド村まで自分を連れて行ってくれないかと願い、頼み、頭を下げてあちこちを走り回ったが、誰も彼もが難しい顔をして断った。
誰も悪くないのだとスイは思う。スイ一人を行かせる事がどれ程問題であるかなど、スイ自身が一番よく分かっていた。それでも、と、タリスマンを握る手に力を込める。
神官は、人のために在る。神の愛は人のために在り、それを届ける神官もまたそう在ることを望まれた。助けられる可能性が少しでもあるなら、スイは神官として最善を尽くす事を諦めたくなかったのだ。
「彼らは、逃げないんだな」
血払いをし、構え直したところで放った十兵衛の静かな言葉に、スイははっとする。
痛みは辛い。死は怖い。魔物となっても根源的なものはきっと変わらないはずだとスイは思う。
魔物達が魔法使いや神官の前に姿を現さないのも、死にたくないからだ。――それでも眼前の彼らは向かってきた。逃げることなく、終わらせてもらうことを望んで。
「そうですね。本当に、心の、優しい……!」
「あぁ。高潔な者達だ」
十兵衛とスイが命を絶つことに少しでも心軽くあれるよう、恐ろしい異形の者として魔物は襲い掛かる。
ほんのわずかに残った精神で、植え付けられた人への憎悪も死への恐怖も押し殺し、獣の雄叫びを上げながら。
***
九人の魔物達は、どこか穏やかな顔で死んでいた。
首を落とされ、奇跡を全身に浴び脳を焼かれてなお、それが望み通りの結果であったかのように。
すすり泣くカルド村の住人達の中から、村長のオルドアが戦いを終えた十兵衛とスイの前に歩み寄ってきた。
「本当に、ありがとうございました」
「……いえ、力及ばず……」
「いいえ、いいえ。本当は儂らが為すべきだったこと。せめて人の身の内に死にたいと願っていたのに、儂らは叶えてやれなかった」
「…………」
「死を望む彼らに生を望んだ儂らの、なんと残酷なことか、と。猛省するばかりです」
「おい、勘違いするな」
その時だ。それまでずっとアレンの側で静観に努めていたハーデスが、宙を浮いて十兵衛達の元にやってくる。
不機嫌そうに顔をしかめ腕を組んだハーデスが、驚き目を丸くするオルドアに対しびしりと指を指した。
「生きとし生ける者に死は必ず訪れる。それの早い遅いを決めるのはお前ではない、本人だ」
「ハーデス!」
止めにかかった十兵衛の手をひらりと躱し、ハーデスが少し高い所に浮いて三人を見下ろした。
「拘束をしようがなんだろうが、精神が自由である内に舌でも噛めば死ねたんだ。それを為さなかったのは、彼らが心中でまだ生を諦めていなかったからだ」
「――っ!」
「共に生きたいと思うこと。生きて欲しいと願うこと。生の謳歌を祈ること。それらに罪などあろうはずもない。――思え、願え、祈れ。その祝福は必ず糧となる」
ハーデスの揺らぎも見せぬ真っ直ぐな
オルドア達は知らないが、この男は死を冠する超越者なのだ。なのに、何故だか彼が語る『生』への言葉が耳に残る。
表裏一体の世の理を思い、十兵衛はしばし黙して目を伏せるのだった。
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