9
あの日、イロナがサキュバスとして生まれ変わった夜。あれ以来、イロナは、ヤーノシュの存在を意識の外へ追いやっていた。快楽に没頭する上で、邪魔以外の何ものでもなかったからだ。アヘンの力も借りて、徹底的に忘却しようとした。そしていつしか、本当に思い出さなくなった。過去とともに葬り去ったつもりだった。
けれども、結局こうして再会してしまった。そのショックでイロナはアヘンの酩酊から覚め、正気を取り戻した。今こそアヘンの力に頼りたいくらいなのに。
「感謝祭の宣伝を打ち出した直後に、彼女から雑誌社を通じて連絡があったのだよ。そこでこうして、感動の再会を演出したわけだ。しかし、まさかこんなにそっくりな双子の妹がいたとはな。なぜ教えてくれなかったんだ? ひょっとして、私を盗られるとでも思ったか? 心配しなくてもいいのだよ。私はおまえのことが大好きだからね」
バートンはイロナをうしろからやさしく抱きすくめ、耳元でささやく。しかし、その内容がまったく頭に入って来ない。目の前のヤーノシュでいっぱいだ。
「私はねえイロナ、少し後悔していたんだ。今の堕落しきったおまえも悪くないのだが、最近は出会ったばかりのころを思い出してしまってね。肉欲にあらがおうとしてあらがえない、徐々に快楽へ堕ちていく、気高くもぶざまな姿を。アレはとても美しかった。興奮した。もっとじっくり楽しむべきだったとくやんでいる。だからどうにかして、もとのおまえを取り戻せないか考えていたんだ。そんな矢先に彼女が現れた。どうだねイロナ? 生き別れた実の妹に、今の自分を知られて。快楽のためにすべてを捨てて変わり果てた、そんなザマを見られて。何を感じている? どうしてそんなに震えているのだね? さあ、私に教えてくれ――」
「ボクのイロナを放せ。このブタ野郎」
そのドスの利いた罵声に、バートンは困惑した様子でヤーノシュを見た。どうやらようやく誤解に気づいたようだ。
「……おやおや、おまえひょっとして、男か?」
「だったら何だ?」
「こいつはケッサクだ。双子サキュバスというのもアリだと思っていたんだが、サキュバスとインキュバスのコンビなら、もっと観客にウケそうじゃないか。ふむ、絶対そのほうがいい。だがどちらにせよ、肌の色をどうするかが問題だな……おっと、動くんじゃあない」
こちらへ近づこうとしてきたヤーノシュを、バートンはナイフをイロナの首筋へ突きつけて制止した。彼が後生大事にしているジャグリング用のナイフだ。錆も刃こぼれもない。
「ミルクを床へ置け。そんなものでもじゅうぶん凶器になるからな」
ヤーノシュは指示通り瓶を手放した。「ボクも見世物にしようってわけ? 観客の目の前でよくも堂々とそんなことを」
「誤解してもらっては困るな。今のはちょっとした勧誘だ。あくまで本人の意思を優先するとも。実際、おまえの姉も自分から望んでやっている。ああ、それと、おまえに知らされた感謝祭の延期は嘘だ。本当は予定通り開催された。今ここにいる観客は、おまえ以外サクラでね。おまえたち、この男を取り押さえろ」
バートンに命じられて、男たちが舞台上に群がった。ヤーノシュを取り囲んで床にねじ伏せる。
「最初からボクをハメる気だったのか」
「見世物の身内が連絡してきて、もめごとにならなかった試しがなくてね。さすがにここまで大がかりなのは初めてだが。個人的には、おまえがこの状況に流されて、サキュバスのイロナにミルクを飲ませてほしかったよ。イロナの反応が楽しみだったのだが……まあいい。さあイロナ、おまえの弟に見せつけてやろう。大事な姉が、父親くらい年上の脂ぎったデブと愛し合うさまを」
「あっ、ダメ!」
イロナはとっさに抵抗しようとした。けれども舞台上の演出で拘束されたままだし、そもそも腕力ではまったく敵わない。股を大きく開いた状態で抱え上げられる。
「いけませんご主人様! こんなことしてる場合じゃ――あンっ」
「おお、そんなに嫌か。弟に見られるのが恥ずかしいか。いいぞ。すごくいい。まるで以前のおまえに戻ったかのようだ。この茶番をセッティングした甲斐がある」
バートンの熱い吐息がかかる。その匂いを嗅いでいるだけで、頭がふわふわしてくる。さらに容赦のない愛撫で、強制的に発情させられる。何もかもどうでもよくなってしまう。だがイロナは必死にこらえ、どうにか危険を伝えようとする。
「違うんです。早く、早く逃げないと。じゃないと、ヤーノシュに殺されるっ」
「うん?」
「ヤーノシュ! わたっ、わたしを食べに来たんでしょ? そうなんでしょう?」
「それなんだけどねえ……知った以上放っておけないから来たけど、正直どうすればいいのか悩んでてさあ。だって食べたら死んじゃうし。そう言うイロナこそどうなの? そんな身体になったのも、わざわざアメリカへ来たのも、ボクを殺すためだよね? みんなの復讐?」
「それは、その……」
「まあいいや。話の続きは、邪魔な連中を片付けてからだ」
そう告げるや、ヤーノシュの肉体が尼僧服を突き破って肥大化し、人狼へと変貌した。
ヤーノシュは群がっていた男たちを跳ねのけ、次々と爪で八つ裂きにしていく。腕のひと振りで同時に何人も殺される。まるでトルネードだ。テント内に血煙が充満する。
「人狼……ロニーと全然違うじゃないか……」
バートンは呆然とその光景を眺めている。だからイロナは早く逃げろと言ったのだ。あんなおそろしい怪物を目の前にしたら、大抵の人間は身体がすくんで動けなくなってしまう。うかつに背を向ければ、即座に襲われそうな気がしてくる。
「グララアガア! グララアガア!」
ものの一分足らずで、集められたサクラはあっという間に全滅し、残るはイロナとバートンだけになった。
「く、来るなぁ!」
バートンはヤーノシュに見せつけるように、ナイフをイロナの首筋に限界まで近づける。震えで手もとが狂ってわずかに先端が刺さり、血が細く垂れ落ちる。
「助けてくれイロナ! おまえならアレを倒せるのだろう!」
「ム、ムリです……今のわたしには、もう……」
マーシャルアーツの鍛錬を怠っただけではない。歯を全部抜いたせいで、上手く力をこめることが出来なくなってしまった。浸透勁どころか、力まかせに殴ることもままならない。
「だったら命乞いでも何でもやれ! おまえの弟だろう!」
バートンと密着しているイロナの尻に、生温かい感触が広がる。彼が失禁したのだ。その情けない姿に、イロナはこんな状況にも関わらず愛おしさを覚えた。
血まみれになったヤーノシュが、ふたりのそばへ近づいてくる。だが、すぐさま襲ってこようとしない。イロナが人質として通用しているようだ。理由ははっきりしないが、今すぐイロナを殺す気はないらしい。ならばそこに賭けるしかない。
「ヤーノシュ、おねがい話を聞いて。ご主人様を殺さないで。わたしには、この人が必要なの。ご主人様じゃなきゃダメなの。愛しているのよ。ご主人様がいなくなったら、わたしもう生きていけない」
「……イロナ、それ本気で言ってる? そんなハゲデブ野郎のどこがいいわけ?」
「あなたもご主人様に抱いてもらえばわかるわ」
「はぁ?」
イロナの言葉に、ヤーノシュは半信半疑の様子だ。無理もない。イロナも第一印象は最悪だった。けれども、ひとを見た目で判断してはいけない。身体の相性というのは、実際につながってみなければわからないのだ。
「ご主人様に抱かれているとね、心がほわーって暖かくなるの。すごく安心できるの。それにとにかく気持ちいいし」
「…………」
「ほら見て? お股から蜜があふれてきてる。ご主人様にズボズボされるのを想像するだけで、こんなになっちゃった。すごいでしょう? でも実際やったら、想像の何倍も気持ちいいの。きっとヤーノシュも気に入るわ。だってわたしたち、双子なんだから」
するとヤーノシュは、深々とため息をついた。「……イロナってさ、お母様そっくりだよね」
「えっ?」
イロナはわけがわからなかった。なぜ唐突に母のことなど言い出すのか。あのやさしくも厳しかった母と、自分は似ても似つかないと思うのだが。
「もういい。よぉくわかった。ボクの半身だったイロナは、もうどこにもいないんだね……ああ、結局いつもこうだ……」
しかし、とにかく説得に失敗したことだけはわかった。話が絶望的に噛み合っていない。ヤーノシュが何を考えているのか、理解できない。双子なのに。自分たちはふたりでひとりだったはずなのに。
ヤーノシュが右腕を振りかぶる。
「さよなら、イロナ」
「待っ――」
爪が振り下ろされ、血しぶきが噴き出す。イロナの視界が赤く染まる。
痛みはほんの一瞬で、すぐに感覚が鈍くなった。全身から力が抜けていく。熱が抜けていく。血が抜けている。
「グワア! 目が! 目がぁ!」
ヤーノシュが目を押さえて、もだえ苦しんでいた。
なぜ? いったい何が?
「よし、よぉし! 効いてるぞ! 本当だった!」
首筋に突きつけられていたナイフが、血で濡れている。にぎっている手まで真っ赤だ。
身体が床に投げ出される。バートンが抱きしめてくれていたはずのに、どうして?
「ごしゅじん、さま?」
遠ざかる。足音が遠ざかっていく。
ご主人様、ご主人様はどこ?
寒い。寒い。震えが止まらない。
暖めてほしい。
抱きしめて――。
「クソ! 待てこのブタ野郎!」
ヤーノシュは激怒した。なんという卑劣な男か。まさかイロナの頸動脈を切り裂いて、ヤーノシュに血を浴びせかけてくるとは。
銀の毒が本体まで浸食するのを防ぐため、ヤーノシュはとっさに毛皮を脱ぎ捨てて変身を解いた。まだ痛みは残っているが、ちゃんと見える。太っているわりに機敏な動きで駆け去っていく、バートンの背中が見えている。
一瞬追いかけようとしたが、すぐ思いとどまった。それより今はイロナが危ない。
こういうとき、どうすればいいかは知っている。十二年前の自分とは違う。とにかく止血だ。止血するのだ。ヤーノシュはイロナの首筋を右手で押さえた。「うぐゥ!」
とたんに銀の毒で、皮膚が焼けただれる。熱い。痛い。しびれてもきた。どす黒い煙が細く立ち上り、悪臭で鼻が曲がりそうだ。
血が止まらない。やはり手だけでは無理がある。傷口を縫合しなければ。だが片腕ではどうにもならない。針も糸もない。何もできない。
周囲に血だまりが広がっていく。ひざをついていたせいで、そこも毒に侵される。にっちもさっちもいかず、ヤーノシュはただただ傷口を押さえ続ける。お願いだから止まってくれ。
「ヤー、ノ、シュ」
「しゃべらないでイロナ。傷にさわる」
「どう、し、て――」
「そんなのわからないよ!」
ついさっきまでイロナを殺そうとしていたのに、今はわが身も顧みず、助けようと必死だ。これではつじつまが合わない。理屈の通らないことをしている。
「クソ! 何やってるんだボクは? なんでこうなった? ボクはただ、最後まで取っておきたかっただけなのに――」
「ヤー、ノシュ、どう、して」
「だからわかんないって!」
「人、狼、なった、言わな」
「……えっ?」
「ふた、ご、ひ、みつ、ダ、メ」
ヤーノシュはわけがわからなかった。今さらなぜ、イロナはそんなことを訊くのか。
自分が人狼になった瞬間を、そうと自覚した瞬間を思い出す。言ってどうなるというのだ。言えるはずがない。イロナの指を、にじみ出る血をなめていたら、食い殺したくなったなどと。正直に白状していたら、おとなしく食べさせてくれたのか。
わからない。イロナの考えていることがさっぱりわからない。双子なのに。昔はおたがい、手に取るようにわかったのに。一心同体だったのに。
「何なの……ちゃんと教えてくれなきゃ、わからないよ……」
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