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返信してからだいぶ待ったが、エーディトから二通目の手紙が届くことはなかった。コリンダもこちらへ来ていない。どうやらイロナは完全に見放されたらしい。エーディトは激怒しただろうか、それとも嘆き悲しんだのだろうか。それを想像すると、さすがにイロナも胸が苦しくなった。
だが、これでいい。イロナはあらゆる過去のしがらみから解放されたのだ。実に晴れやかな気分だ。
何か記念になるものがほしいと思った。しかし、適当なものが思いつかない。どうも最近、むずかしいことが考えられなくなっている。何も考えていないほうが気持ちよくなれるので、べつにかまわないのだが、こういうときは少し困りものだ。
もっとも、対処法はいつも決まっている。バートンに相談すればいいのだ。ご主人様ならイロナの望むことを、彼女自身よりも理解してくれている。彼の意見を訊けば間違いない。
「それなら、特別記念公演をするというのはどうだ?」
「特別記念公演? それはようするに、いつもと違う特別な公演ということですか?」
「そのとおり。イロナは賢いな」
「えへへ」
「イロナがうれしかったことを、観客にも祝ってもらう。そのお礼に、イロナも最高のパフォーマンスでお返しする。もちろん、イロナのワンマンショーでな」
「でも、具体的にどんなことをすればいいのでしょう?」
「そうだな……まず、集客方法をふだんと変えよう。例の雑誌社に協力を頼んで、数量限定のチケットを応募販売する。各地からイロナのファンに集まってもらうんだ。とはいえ、地理的な問題もあるから、ある程度の範囲に絞られるだろうが。それで一夜かぎりのイベントを開催しよう。ファン感謝祭だ」
「なるほどぉ。それで演目は何を? 特別ですから、いつもと同じじゃないですよね」
「まあそこは、私が当日までに考えておこう。イロナはそれまで楽しみに待っていなさい」
「はぁい」
雑誌社の協力により、イロナのファン感謝祭が大々的に宣伝された。開催は三ヶ月後だ。用意されたチケットはわずか数日で売り切れたらしい。
バートンは演目を考えついたようだが、イロナには絶対教えてくれなかった。内容は極秘で、当日の舞台上で発表するという。これは観客に対しても同じだ。いったいどんなことをさせられるのか、イロナは心躍る一方、せっかくのイベントに備えて何もできないのは少々残念だった。もっとも、ふだんの興行も途切れずおこなわれているので、気がつけばイロナはすっかり忘れ去っていた。
そうして、あっという間に三ヶ月が過ぎた。このところイロナは、月日の経過に対する感覚があいまいになっていた。なので通常の公演を終えたあとに、今夜が感謝祭当日だと知らされたときは、非常におどろいた。
「もうそんなに経っていたんですね」
「そうだぞ」
「わたし最近ヘンなんです。記憶が途切れがちで、何だか頭がぼんやりして」
「それはそうだろう。ここしばらくずっとアヘン漬けだからな」
「アヘン? わたしそんなに吸っていましたっけ?」
「ああ。実際今も吸っているよ」
そう指摘されてから、イロナは自分がパイプをくわえていることに気づいた。唇に馴染んでいて、少しも意識していなかった。
「二回目の堕胎手術で、かなり中毒が進行したんだ。それで少しも手放せなくなった」
「二回目? 堕胎なんて一回しかやってませんけど。あれからはお尻とかお口とか使って避妊してましたし。安全日だってちゃんと計算してましたし」
「そのときはちゃんと妊娠するつもりだったのだよ。今から一年前だ。おまえは先生から手紙の返事が来なくて、過去のしがらみがなくなったとよろこんでいた」
「えっ? いや、それは三ヶ月前ですよね?」
「いいや、そのことで記念に何かほしいと言い出したのは、今回が二回目だ。ただし前回のおまえには、明確な希望があった。おまえは、私の子供がほしいと言い出したのだ」
「何だかよくわからなくなってきました。どうして子供なんて……」
「それは知らん。理由を明かしてくれなかったからな。どうせ淫乱なおまえのことだ。おおかた、妊娠した状態で入れてみたかったというところじゃないか? まあ今さらどうでもいい。私も魔が差したんだ。ボテ腹のサキュバスというのもアリかもしれんな、と」
「そうだったんですか……でも、それならなぜ堕胎を?」
「胎児が子宮の外で成長していたんだ。コンラッドの見立てでは、おそらくその脇腹の傷が原因じゃないかという話だ。ならなぜ一回目は平気だったのかは謎だが」
「この傷が……えっと、わたしがご主人様に捕まったときの?」
「それは舞台上の設定だろう。子供のころ人狼につけられた傷ではなかったか?」
「あ、そうですね。たぶんそうです」
「胎児は見込みがなかったし、放っておけばおまえの命も危険だった。ちなみに、いつものやり方では堕胎できなかったからな。もともとの古傷の上に、新しい傷があるだろう。そこから引きずり出した」
「こんなところから……」
「何か感じるか?」
「……わかりません。何だか実感が湧かなくて」
「まあいい。気にすることはない。どうせ忘れる。実際、この話をするのも三回目だからな。そんなことより、そろそろ感謝祭の開催時刻だ」
「はい」
バートンに連れられて、イロナは公演用のテントへ移動した。そこにはすでに観客たちがイロナを待ちかまえていた。
「皆さま、本日はサキュバスのイロナによるファン感謝祭へ、ようこそお越しくださいました。今宵は心ゆくまでお楽しみください」
前口上のあと、イロナはいつものように身体をすみずみまで観察された。これではふだんと変わらない。いつ特別な演目が始まるのだろうと思いながら、やはりいつものようにミルクを飲ませる段となった。
「それでは、どなたかエサやりを体験してみたいという方は――はい。ではそちらのシスター、こちらへどうぞ」
すると人混みのなかから、一人の修道女が舞台へ上がって来た。
イロナは不思議に思った。まさか貞淑であるべき修道女が、こんな不道徳な見世物を見に来るとは。イロナが見世物一座に加わってから、初めてのことではないか。
バートンはシスターにミルクの入った瓶を渡そうとし、「けっこう重いですよ。片腕で持てますか?」
「ええ。こう見えて力はあるほうなので」
その言葉で、イロナはシスターが隻腕なことに気がついた。からっぽの左袖が揺れている。
「――なんで」
シスターの顔は、自分とうりふたつだった。まるで鏡を見ているかのように。
「やあイロナ。ひさしぶり」
そう言ってヤーノシュはうれしそうにほほ笑んだ。
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