見世物小屋に囚われてから、早二ヶ月。ようやく脱走の算段が整ってきた。

 イロナは雑用係のラリーに狙いを定めた。彼は仕事の関係上、檻と枷の鍵を持たされている。イロナに対して同情的だし、劣情をいだいている。しかもおそらく童貞だ。誘惑して油断させるのはたやすい。

 首尾よく鍵を奪って脱走したら、ひとまずは町の娼館へ逃げ込む。着の身着のままどころか全裸では、遠くまで逃げられない。またへたをすると、親切な住民に連れ戻されるおそれがある。その点、バートンが見世物に身体を売らせていると娼館に密告すれば、少なくとも門前払いされることはあるまい。

 ただし計画を実行する上で、事前に解決しておくべきことがある。見世物たちはそれぞれ、大型動物用の檻に閉じ込められている――眠り女のルクレツィアだけは棺桶だが。本来は一人につき専用の檻だが、イロナの場合は急だったのでまだ用意できておらず、蛇女のエヴァと同じ檻に放り込まれている。彼女を味方に引き入れておかないと、計画に支障が出るかもしれない。

 何なら計画の決行時、適当に殴って気絶させれば済む。しかし、できるかぎりそんな乱暴な手は使いたくない。イロナが脱走したあと、残されたエヴァがどんな目に遭うか、想像にかたくない。

 聞いた話では、エヴァは周囲からうろこ状の皮膚を気味悪がれ、物心つく前に見世物小屋へ売られたのだという。イロナが捕まってからというもの、エヴァはとても親切にしてくれた。自分自身もまた不幸な被害者だというのに。それを見捨てて逃げるなど、神が許すはずはない。

「エヴァ、あなたの肌は魚鱗癬という皮膚病です。残念ながら完治させるのはむずかしいですが、適切な治療さえ施せば、かなり状態を改善させられます」

「えっ、ホントに?」

「本当です。しかし、この見世物小屋に囚われたままでは、それも叶いません。バートンからすれば、あなたを見世物にできなくなると困りますから。逆に言えば、肌さえ治ればもうこんな場所に居続けなくてよくなります」

「でも……」

「やりたくないことをやらされる必要はありません。いつまでもいいように使われていてはダメです。わたしといっしょにここから逃げ出しましょう」

「…………」

「大丈夫、逃げる算段はまかせてください。あなたはただ、わたしのうしろについて来てくれればいいですから」

「……わかった」

 イロナは罪悪感で胸が痛んだ。治療で皮膚の状態は確実に改善されるが、おそらくエヴァが期待するほど綺麗にはならない。嘘を言ってはいないが、ほとんどだましたようなものだ。だが、このまま見世物小屋に居続けるよりはずっといい。そう正当化して、イロナは自身を納得させる。

「作戦の決行は、次の町に着いた直後です」

「ああ、座長が留守のときを狙うのね」

 見世物一座は原則として、ひとつの町に二週間程度滞在し、また次の町へ移動する。イロナが加わってから、すでに三つの町を渡り歩いてきた。今の町での興行は昨日まで終了しており、今日はスタッフが移動準備に追われている最中だ。午後にはここを出発し、次の町へは五日後に到着する予定と聞いている。

 新たな町に到着してまずおこなうのは、興業の許可を得るための交渉だ。バートンは人心掌握に長けており、拒絶されることはめったにないという。有力者の接待もおこなうため、その日バートンは丸一日不在だ。スタッフも休暇となるため、留守番を押しつけられるラリー以外は誰もいなくなる。計画の実行にはもってこいだ。

「作戦はだいたいこんなところです。ここまでで何か質問は?」

「あ、それじゃあひとつ聞いていい? あのさ……さっきからそれ、何やってるの?」

「鍛練です。檻のなかに閉じ込められていると、運動不足になりがちですから。意識して身体を動かさないと」

 イロナは今、檻の上部分の鉄格子を足の指でつかみ、逆さ吊りになった状態で腹筋運動をくり返していた。この鍛練法は腹部だけでなく、同時に下半身の筋肉も鍛えることができる。特にマーシャルアーツで足の指は重要だ。ここを鍛えることでステップはもちろん、キックの威力にも違いが出る。ヘルマンシュタット修道院にいるコリンダも、今ごろこれをやらされていることだろう。正式な形としては、その動作と同時に地面の桶から小皿で水を汲み、上にかけてある桶へと移さなければならない。一定時間で桶の水が戻されて最初からになってしまうので、それより早く満杯にする必要がある。

「よければエヴァにも教えましょうか。マーシャルアーツ自体は門外不出ですが、こういった筋肉を育てる個々の鍛練法については、そのかぎりではありません。筋肉は健康に役立ちますし、女性らしい体型にもある程度は必要です。エヴァはウエストが若干太めですからね。このようにひねりを利かせると、腹斜筋が引き締められてくびれが作れますよ」

「……遠慮しておくわ。いざ逃げようってときに筋肉痛で走れなかったら困るし」

「それもそうですね」


 そして、予定通り次の町に到着した夜。

 興行の許可を問題なく得られたバートンは、いったん戻って来てその件をみなに伝えてから接待へ出かけた。ほかのスタッフも夜の町へと繰り出し、やはり居残りはラリーだけだ。ここまではすべて期待どおりの展開。

 バートンが忘れ物を取りに戻る可能性を考慮し、じゅうぶんに時間を置いてから、イロナは作戦を決行した。

「ラリー! ラリー! 早く、早く来て! イロナが大変なの!」

 エヴァは張り裂けんばかりに金切り声を上げた。

「いったい何ごと――」

 駆けつけたラリーは、檻のなかのイロナを見て絶句した。

 イロナは床に寝そべり、見せつけるように大きく股を広げ、激しく自慰をしていた。右手は性器を、左手は乳房を愛撫していた。しかも、壊れそうなくらい乱暴に。苛烈に。

「ひんほ、ひんほぉお、あああああああ」

 とても正気とは思えないありさまだ。エヴァが必死にやめさせようとしているが、腕力に差がありすぎて話にならない。

「おいエヴァ、何だよこりゃあ……イロナはいったいどうしちまったんだ……?」

「イロナって子供のからずっと、男子禁制の女子修道院にいたんだって。べつに処女ってわけじゃなかったらしいけど、しょせん毛が生えた程度よ。それが毎晩毎晩ヨガらされたから……」

「いや、そうはならんだろ」

「なってるでしょうが。ねえ、座長まだ帰って来ないの? このままだとイロナ、欲求不満でおかしくなっちゃう」

「あと二時間は帰って来ないぞ。大事なパーティーらしいから、こんなことで呼び戻すわけにもいかねえだろうし……」

「そうだ。何だったら、アンタがちょっと相手してやったら? 自分の指よりはマシでしょ」

「はぁ? ……いやいや、ダメだろそれは。そんなことしたら、俺が座長に叱られる」

「叱られるくらいなんだっていうの。イロナを助けるためでしょ。だいたい、イロナが見世物として使い物にならなくなったら、それこそ叱られるだけじゃすまないわ」

「……わかったよ。やりゃいいんだろやりゃ」

 ラリーは渋々といった様子でズボンを下ろした。しかしその態度と裏腹に、股間のそれはやる気じゅうぶんだ。とはいえ、バートンと比べてあまりにも粗末なシロモノだが。

「あうう」

 それに気づいたイロナは、自慰の手を止めぬまま鉄格子に這い寄って、尻を突き出した。ラリーはごくりと生唾を飲み、隙間から挿入する。

「うおぅ、なんだこれ――すごいきつい――絞まる――あぎゃっ!」

 情けない悲鳴を上げ、ラリーは口から泡を噴いて卒倒した。

「えっ? なに? 今の、何やったの?」

「折りました」イロナは演技をやめて答えた。

「お、折ったぁ?」

「身体の内側の筋肉を鍛えれば、こういうことも可能です」

「怖ぁ……」

 イロナは鉄格子の隙間から左手を伸ばし、ラリーの服をまさぐって鍵を奪い取った。これで外へ出られる。

「……アレ? でもさあ、そんなすごい技が使えるんだったら、どうしてバートンに使わなかったの?」

「えっ? いや、だってそれは――」

 イロナは愕然とした。エヴァの疑問に答えられない。何しろ、そんなことは微塵も考えていなかったのだ。

 バートンの大きさは規格外で、こちらが攻めへ転じるのは不可能に近い。試みたところで上手くいったとは思えない。たとえ成功したとしても、拘束されたままでは脱出が困難だろう。けれども、それすら検討していなかったというのは、いくら何でもおかしい。

 あらためて思い返すと、脱走を決行するのにこれほど様子見する必要はあっただろうか。拘束さえなければ、バートンなどマーシャルアーツで一撃だ。何も彼の不在を狙って、無駄に時を費やすまでもない。

 いや、それを言うなら、そもそもバートンを始末すること自体、選択肢としていっさい念頭に置いていなかった。ただ逃げようとしていただけだ。本来の自分ならありえない惰弱ぶりではないか。

 まさか、バートンに怖気づいているというのか? 人狼と命懸けの戦いをくり返してきた自分が?

 いや、それはない。イロナは彼を怖れてなどいない。そこは断言できる。彼に対する感情は、恐怖というよりはむしろ――

「イロナ? 大丈夫?」

「……ええ、大丈夫です。わたしは大丈夫」

 きっとアヘンのせいに違いない。そのせいで思考力が低下してしまっているのだ。やはり長居しすぎたのだろう。だがそれも今夜で終わりだ。

「いや、本当に大丈夫?」エヴァは何やら言いにくそうに、「それ、いつまでやってるの?」

「えっ?」

 そう指摘されて初めて、イロナは自分がまだ自慰を続けていることに気づいた。あわてて性器から右手を離し、濡れてぐちょぐちょになった手のひらをラリーの服になすりつけた。

「これは見苦しいところを。演技に入り込みすぎたようです」

「しっかりしてよね。アンタが頼りなんだから」

「すみません……。それじゃあ行きましょうか。エヴァ、わたしから絶対に離れないでくださいね」

「うん」

 するとエヴァは、うしろから抱きついてきた。肌と肌が密着する。基本的には硬い鱗の感触だが、二ヶ所だけ微妙にやわらかい。

「あの、離れるなというのはそういう意味では――うぐっ!」

 エヴァの手足が、蛇のように身体へ巻きつく。右腕はイロナの首に、左腕は左腕、両脚は右腕に絡みついている。完全に身動きを封じられて引きはがせず、呼吸もままならない。

「なに、を」

「イロナさあ、何もわかってないよね。アタシみたいな女が、ここ以外でやってけるわけないじゃん。綺麗な肌? 蛇女じゃなくなったアタシに、いったい何の価値があるっていうの。それしか取り柄のないアタシに」

「そん、なっ、こと」

「そんなことないって? ひょっとしたらそうかもね。けど、どうでもいい。アタシはここの暮らしで満足してるの。やりたくて始めたことじゃないけど、今はそれなりに充実してる。それを間違ってるなんて、アンタに言われる筋合いはないのよ。まあべつに? アンタがいなくなってくれたら清々するけどさ? アンタが来てから、座長がアタシのこと全然抱いてくれなくなっちゃったし。だけどね、アタシがなりたかったお気に入りの座を、あっさり捨てられちゃうのは……ちょっとムカつくわ」

「ぐ、ぎぃ」

 頸動脈を圧迫されて、意識が遠のく――まずい――このまま気絶してしまったら――

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