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結局案内を買って出たのは、ついさっきまで処刑されかけていた保安官だった。落馬したときにどこか傷めた様子だが、とにかくあの場から離れたかったのだろう。イロナがいなくなったあとで、処刑が再開されないともかぎらない。
「しかし、まさかあのシスターが男だったとは」
「子供のころはわたしとよく入れ替わっていましたからね。いまだに可能だったとはさすがにおどろきですが」
「まあ、さすがに同一人物には見えませんよ」
保安官の視線が、一部分に吸い寄せられる。もちろん左腕のほうではない。
イロナは容赦なく目つぶしした。
「いギャッ!」
「あそこですか」イロナは視界に映る建物を指差した。
「見えません」
「わたしには教会に見えます」
「ならそこで合ってます。ほかに教会と見間違えるものはありませんから」
「ありがとうございます。案内はここまででけっこうです」
「お待ちください。一人で行くつもりですか。危険ですよ」
「ご心配なく。人狼相手ならわたしは無敵ですから。間違ってもついて来ないでくださいね。足手まといになるだけです」
保安官にそう言い含めて、イロナは教会へと踏み込む。厳密には礼拝堂と別棟で併設された、居住用の家屋だ。
「ヤーノシュ!」
玄関を蹴り開けた瞬間、猛烈な悪臭が漏れ出てきた。この十年ですっかり嗅ぎなれた臭い――血と臓物の臭い。
入り口から近い部屋から順に改めていく。そして寝室でそれを見つけた。積み重ねられた毛皮の山と、おびただしい量の血痕。おそらく被害者をさらったときは、ここで落ち着いて食事を楽しんだのだろう。
それから全部屋をくまなく捜索し、さらに礼拝堂のほうも徹底的に調べたが、ヤーノシュは見つからなかった。どうやら一足遅かったようだ。今回もまんまと逃げられた。
イロナは幼い子供のように地団駄を踏んでから、肩を落としてため息をついた。
「アメリカ、ですか……」
「ああ。今さら言うまでもないだろうが、聖フーベルトゥス女子修道会の管轄外だ。提携している教会も修道院もない。この意味がわかるか? つまり、サポートをいっさい受けられないってことだ」
まず情報面で確実におくれを取らされる。管轄内でさえ、人狼被害の報告を受けてから現場へ駆けつけるまで時間がかかるのだ。単身アメリカにわたって、ヤーノシュを見つけられる保証はどこにもない。
そしてそれ以上にやっかいなのは、イロナたち人狼狩りの存在が周知されない点だ。地元の教会が住民に対して身分を保証してくれない。移民の国なので知識のある者もいるかもしれないが、あまり期待はできない。
つまりアメリカの人々にとって、イロナは青い肌の不気味な女でしかない。協力を得られないどころか、へたをすれば悪魔とでも誤解され、袋だたきに遭うかもしれない。
エーディトは一枚の紙切れを手渡してきた。
「これは?」
「おまえに、聖フーベルトゥス女子修道会のアメリカ進出へ向けた、視察を命じる書類だ」
修道会の管轄は原則として、うしろ盾であるハプスブルク家の権威が及ぶ範囲だ。その外側へ修道会が独自に進出を試みるなど、前代未聞と言っていい。
「ハプスブルク家の権勢も今や斜陽だ。フランス革命がトドメだったな。そう遠くない日に、神聖ローマ帝国は滅びる」
「えっ? そうなんですか?」
「話の腰を折るな。とにかくそうなんだよ。このままだと修道会の活動地域が分断されちまう。だが、人狼の出現は広い範囲に浅く分布している。細切れの国家じゃあ、われらが修道会のパトロンになりえない。かと言って、バチカンの権威も怪しくなってきていて頼れない。そこでお偉方は考えた。人狼の出現数が一定以上期待できる、広い領土と人口を有する国はないか――その条件に当てはまるのがアメリカだ。で、とりあえず人狼の出現事例を調べさせていたら、偶然ヤーノシュの存在が確認されたもんで、ちょうどいいから身内のおまえに視察を押しつけたってわけだ。おまえなら実力もあるしな」
「なるほど。実にありがたい話です」
イロナは運がいい。場合によっては、イロナ以外の人間に視察が命じられる可能性もあった。イロナたちは原則として、人狼狩りに派遣される際の行き来以外、修道院から出ることを許されていない。ヤーノシュの居場所がわかったところで、勝手に赴くことはできないのだ。しかしこうして許可された以上、何の憂いもなくヤーノシュを捜しに行ける。
「あのな、ちゃんと意味わかってるのか?」
「もちろんです。修道会を脱走しなくて済むということですよね」
エーディトは深々とため息をついた。「いいか? おまえはお偉方の政治に巻き込まれたんだ。保守派は視察の失敗を願ってるし、改革派だって上手くいけば儲けもの程度にしか思ってない。それでも行くのか」
「はい」
「もっとよく考えろ。もしおまえが拒否するなら、アタシが何とかして命令を撤回させてやる。だから――」
「いえ、行きますよ。わたしは」
イロナはエーディトが何を気にしているのか、理解に苦しんだ。それは人狼と命懸けで戦うことと比べて、いったいどこが違うのだろう。本質的にイロナたちは捨て駒だ。たとえ人狼に食われてでも、人狼を殺すのが役目なのだから。
「そんなに復讐したいのか? 老婆心で忠告しておくが、復讐なんて割に合わんぞ。やったところで何の感慨も湧かない。おどろくほどにな」
「…………」
何を言われようと、決意は変わらない。イロナはヤーノシュに再会しなければならないのだ。彼に会って、そして――
「このバカ弟子……もういい。さっさと行っちまえバカ。おまえなんか破門だ。荒野で野垂れ死んじまえ」そう吐き捨て、エーディトは顔をそむけた。その目にきらりと光が反射する。
「……先生、もしかして泣いているんですか?」
「泣いてない!」
あまりに子供じみたことを言うので、イロナは思わず笑ってしまった。
かならず生きて帰ろう。すっかり涙もろくなった師匠を悲しませないために。イロナはそう心に誓った。
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