5
町の教会は小さな礼拝堂に、牧師とその家族が暮らすための住居が併設されている。フレデリカが住居のほうを訪ねると、玄関からシスターが顔を出した。
「あの、あたしリーマンの娘で――」フレデリカは腰を抜かした。あやうく鍋をひっくり返すところだった。
なんて綺麗なのだろう。これほどまでに美しい女性を見たことがない。彼女と比べたら町一番の娼婦など、ウシガエルも同然だろう。女神、いや聖母と言っても過言ではあるまい。普通なら野暮ったい尼僧服のせいで美がそこなわれそうなものなのに、むしろ強調されているように感じる。てっきり父がおおげさに言ったのだと思っていたが、そんなことはなかった。むしろ言葉が足りなかったくらいだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、どうも……」
差し伸べられた右手をつかんで立ち上がる。そこでようやく、シスターがあまりにも青い顔をしていることに気づいた。
「いや、シスターこそ大丈夫ですか? 月のものだとは聞いてましたけど、思ってたより重そうですね」
「ご心配なく。毎月のことですので」
「でも、つらいことはつらいでしょう。あたしも重いほうなのでわかります。食事を持ってきたので、よかったら食べてください」
「ありがとう」
「それじゃあ、あたしはこれで」
旅の話を聞きたかったが、思いのほかシスターの体調が悪そうだし、フレデリカは自重することにした。食事の世話をできないのは気になるが、もともと一人旅だし慣れているだろう。流れで自分の分の食事も渡してしまうことになるが、しかたあるまい。酒場にいる父と合流するか。
などと考えながら歩き出そうとしたところで、シスターに引き留められた。
「よかったらいっしょに食べませんか」
「いいんですか?」
「ええ。私一人でこの量は食べきれませんし」
そういうことならしかたがない。フレデリカは遠慮なくご相伴にあずかることにした。
「ありがとうジミー。もう帰っていいわよ」
スープを温めた直したり食器に盛りつけたりするのは、すべてフレデリカがおこない、シスターには寝ていてもらった。せっかく自分がいるのだから、少しでも休ませてあげたい。月経だけではなかく、旅の疲れもかなり出ているに違いない。
フレデリカの手料理を、シスターは美味しいと言って食べてくれた。食欲はあまりないらしく、結局ほとんど口をつけなかったが。残りを引き受けたため、フレデリカは少し食べ過ぎてしまった。
その代わり会話は弾んだ。シスターはハンガリーという国の、トランシルヴァニアという地方の出身らしい。その地名はラテン語で「森の向こう」を意味し、実際森におおわれた自然豊かな土地だとか。狼も多く生息しており、狼の国とも呼ばれているという。
そこは迷信にまみれた土地で、現代になっても魔物や妖精のたぐいが信じられている。牛小屋に住み着いたヒキガエルは魔女の使い魔で、ツバメは幸運をもたらす神の使いだ。恋のまじないも教えてもらった。ただし運命の相手を知るために、真夜中に全裸で川へ入るつもりはないが。
それから、森の谷間で乙女を待ち伏せるパヌッシュ、生まれたばかりの赤子を食らうストリゴイ、疫病を引き起こすドシュマ、深い水たまりに潜むウォドナ・ムズ、殺した人間を吸血鬼にしてしまうノスフェラトゥ――いろいろ教えてもらった。どれも心躍る物語だ。
「それにしても、シスターって修道院に篭もって生活するんですよね。どうして旅を? そんな身体で、しかも海を渡ってこんな遠くまで」
「ひとを捜しているのです。十年前に生き別れた双子の弟を」
「そうなんですか。弟さんを……いつか見つかるといいですね」
「ありがとう。――あら、いけない。すっかり遅くなってしまいましたね」
夕食をともにする時点で覚悟していたが、日は完全に没していた。窓から覗き見れば、夜空に満月が浮かんでいる。
「よければあなたもここに泊まって行きませんか? 夜道は危ないでしょう」
「べつに平気ですよ。こう見えて足の速さには自信がありますから。それにうちは目と鼻の先だし、月夜だから明るいし」
本音を言えば、ご厚意に甘んじて自分も教会に泊まり、夜通し旅の話を聞きたいところだ。だがさすがにそれは迷惑だろう。社交辞令を本気にしてはいけない。さっきよりも明らかに具合が悪そうだし、フレデリカがいたら気が休まるまい。
しかしシスターは頑として首を横に振り、「油断してはいけませんよ。満月こそ危険なのですから」
「……もしかして、人狼のことですか?」
話に聞いたことがある。ふだんは人間のなかにまぎれ込み、満月の夜に暴れて女子供を襲う怪物。大の男が束になっても敵わないという。
ここはドイツ系移民が開拓した町だ。故郷を離れた事情はさまざまだが、なかには身内から人狼が出たせいで居づらくなったという者もいる。フレデリカの亡き祖父がそうだった。なので人狼のおそろしさについては、耳がタコになるくらい聞かされてきた。
その上で、フレデリカはその懸念を笑い飛ばした。「大丈夫ですって。人狼が出るのはヨーロッパの話でしょ? ここはアメリカですから」
「どうしてそう言い切れるのです?」
「だって、実際出てないですし。ほかの町や村でも出たって話は聞かないし。たぶん人狼って、海を渡れないんじゃないですか」
「それは吸血鬼ですね」
「まあどっちでもいいですけど」
「アメリカでも出ていますよ。つい一ヶ月前も、東部のほうで出たという話です。ごぞんじありませんか」
「へえ」
「反応が薄いですね」
「だって見たことないですし。シスターは人狼を見たことが?」
「ええ。私の弟がそうでした」
「えっ! 捜してるっていう弟さんが?」
「いいですか? いつ誰が人狼になってもおかしくないのですよ。ある日突然、あなたの父親がそうなるかもしれない。そしてそのことにあなたは気づかない。人狼は巧妙に正体を隠しますから。言葉たくみに自分以外へ疑いをなすりつけ、素知らぬ顔で毎晩狩りを続ける。弟もそうやって、屋敷の者たちを皆殺しにしてしまいました。生き残ったのは私だけです。それもただ、運がよかったおかげ……。人狼が本当におそろしいのは、満月の夜ではありません。もっとも、満月が危険なことに変わりはありませんが」
「………‥」
そこまで念を押されたというのに、フレデリカはいまいちピンと来ていなかった。危機感を抱きたくとも、どうにも実感が湧かない。
もちろん、人狼の存在を信じないわけではない。先ほど教えてもらったトランシルヴァニアの迷信に比べれば、はるかに現実的だ。そもそも幼いころ祖父から人狼の話を聞いて、満月の夜はベッドにもぐりこんで震えていたころもあった。夜中に外出せねばならず、おっかなびっくり道を歩いたころもあった。
そして、何事もなく成長した。人間は人狼に襲われなくても死ぬ。強盗に遭うかもしれないし、病気になるかもしれない。石にけつまずいて転び、打ち所が悪いかもしれない。それらすべてをいちいち怖れていては、まともに生活していけない。ある程度恐怖を麻痺させる必要がある。
「……まあ、でも……確かに出るかもしれないですよね、人狼……」
とはいえ、シスターがそこまで必死に引き留めるなら、あえてその手を払いのけることもあるまい。むしろ失礼に当たるのではないか。それに、フレデリカがいなくなったあとで体調がさらに悪化したら大変だ。つきっきりで看病したほうがいいかもしれない。いや、そうに決まっている。
「……やっぱりあたしも泊まっちゃおうかな、なんて」
するとシスターはうれしそうにほほ笑んで、「ありがとうございます。一人旅が長いと、どうしても人恋しくなってしまって」
「あたしなんかでよければ、いくらでも付き合いますよ」
そうして夜は更けていった。
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