第三章

 ヘルマンシュタットまでの道のりは、生まれてから一度も村を出たことのなかったコリンダには、体力的にかなりきつかった。

 ただでさえ長距離を歩き慣れていないというのに、使う道は整備された街道ではなく、人通りの少ない裏道ばかり。なかには道とは名ばかりの獣道もあった。おまけに夜は野宿ときている。これでは疲れが溜まる一方だ。

 とはいえ、それもいたしかたないことだった。人狼のせいで重度の男性恐怖症を患ったコリンダにとって、もはや人里は気の休まる場所ではない。男というのはそこらじゅうにいる。何しろ人類の半分は男なのだ。

 実際、途中で行商人の男と出くわしたときには、われを忘れて泣き叫んでしまった。同じ村の人間なら長い付き合いだからまだ耐えられていたが、見ず知らずの男となると無理だった。とはいえ、村に居続けても遅かれ早かれこうなっていただろう。むしろよく知る相手だからこそ、よけい疑心暗鬼がひどくなっていたに違いない。コリンダは父親を嫌いになりたくはなかった。だからこれでよかったのだ。

 それはそれとして、これからの生活は不安だ。命懸けで人狼と戦う覚悟などいまだ出来ていないし、そもそもイロナと同じ不気味な青い肌になりたいとは思えない。人狼が怖くて村で暮らせなくなったのに、人狼狩りになるなど本末転倒だ。できれば戦う以外の役目をもらいたい。

 修道院も村の生活と同じように、ある程度の役割分担はあるはずだ。事実、村人たちは汗水たらして畑仕事をしていたが、ヨーシュカ神父はいつも教会に引きこもっていた。料理なら姉に少し教わっているので、料理人などいいかもしれない。

 そういったことを、コリンダはそれとなくイロナから聞き出そうとしてみようとするのだが――

「ねえ、ヘルマンシュタットの修道院ってどんなトコなの?」

「ヘルマンシュタットと名はついていますが、厳密には郊外の山中にある湖畔の修道院です。俗世からは完全に隔絶されています」

「……アレ? それってもしかして、スコロマンスがある場所じゃない?」

「言っておきますが、スコロマンスは迷信ですからね。うちの院長は悪魔ではありませんし、湖へ石を投げ込んだら竜が目覚めて雷雨になることもありません」

「えー、でもさ、青い肌の女の人たちが集団生活してたら、それもう悪魔の学校にしか見えないよね」

「いや、スコロマンスは先生が悪魔なのであって、生徒は全員人間でしょう」

「そうだっけ? ていうかシスター・イロナ、何かけっこうくわしくない?」

「……そんなことはありません。敬虔な信徒として、迷信に惑わされるようなことがあってはなりませんから」

「へー、ふーん」

「何ですかその顔は? 信じていないでしょう。信じていませんね。このさいですから今のうちに言っておきますが、そういう目上を敬わない態度は、修道院で通用しませんからね」

「あ、ごまかそうとしてる」

「ごまかしてません」

 といった具合で上手くはぐらかされ、結局実際どんな場所なのかはわからずじまい。そうこうしているうちに目的地へ到着してしまった。

 湖はコリンダが想像していたよりも、半分くらい小さかった。大きな池と言われたほうがしっくりくる。伝説による水深は計り知れないほどらしいが、この程度では水底に潜む竜もたいした大きさではあるまい。

「ちょっとがっかり」

 湖岸のあちこちに手ごろな石が転がっている。コリンダが拾って投げようとしてみたら、イロナに止められた。

「やめなさい。危ないでしょう」

「迷信だったらべつにいいじゃない。どうせ何も起きないんだから」

「そうじゃありません。ほら、よく見なさい」

 言われたとおり目を凝らしてみると、全裸の女が泳いでいた。青い肌のせいで見にくくなっていたようだ。あやうく石をぶつけてしまうところだった。どうやら沐浴していたらしい。

「おや、シスター・イロナ。今戻ってきたところかい? 任務ご苦労さま」

 女はそのままの姿で、恥ずかしげもなく近寄って来た。

「シスター・ユディカ……またこんな場所で沐浴を……誰かに見られたらどうするのです?」

「大丈夫だって。地元の人間は竜を怖がって、めったに近寄らないんだから」

「ですが、まれに怖いもの見たさで来る者はいるでしょう?」

「そのくらいはべつに。まあ見られて減るもんじゃないからね」

「少しは気にしてください」

「そんなことより、身体を清潔に保つことのほうが重要だよ。うちのように閉鎖された環境では、わずかな油断が疫病を招く。特に私の場合、書庫に篭もり切りでおろそかにしがちだからな」ユディカは鼻を鳴らし、「というか君たちこそ、今すぐ沐浴すべきじゃないか? 正直臭うぞ」

「えっ? 確かに野宿続きでまともに沐浴できていませんが……」

「その状態のまま壁のなかへ入るのは感心しないな。それこそ疫病を蔓延させかねない」

 尻込みするイロナを尻目に、コリンダはさっさと衣服を脱ぎ捨てて湖へ飛び込んだ。「ヒャッホー!」

「おやおや、あんな子供に一人で入らせるのは危ないよ。この湖がどれだけ深いかは、君ならよく知っているだろう? なあシスター・イロナ」

 イロナは観念した様子で裸になり、自分も湖へ飛び込んだ。


 沐浴を終えた二人は、律儀に待っていたユディカとともに修道院へ歩いている。

「コリンダか。第四コンスタンティノポリス公会議で祭日を祝うことを禁じられた、異教の女神の名だね」

「違うよ。クリスマスにやる歌とお芝居のことだよ」

「現在のルーマニア人のあいだでは、そういうふうな形で残っているわけか。あらためて、私はシスター・ユディカだ。司書をしている」

「司書って何?」

「修道院というのは、どこも大量の蔵書が保管されているものさ。うちも同じ。ただし、人狼に関するものがほとんどだがね。私はそれらの管理を一手にまかされている。具体的には、壊れた本を修復したり、写本を作ったり、あとは人狼狩りの記録も新たに編纂している。後世に残すためにね」

「じゃあ人狼とは戦わないの?」

「私にはマーシャルアーツの才能がなかったのでね。ひと昔前なら、単なる毒餌として捨て駒にされたところだけど、今はもうそういう時代じゃない。ほかの皆が命懸けで戦っているのに、正直心苦しくはあるよ」

「またそんなことを言って。われわれが人狼と戦えているのは、シスター・ユディカのような人たちが、人狼やマーシャルアーツに関する書物を受け継いでくれたからなんですよ。わたしたち狩人の一人ひとりが生涯に殺せる人狼はせいぜい、百にも満たないでしょう。けれどあなたが知識を後世へ残せば、万の人狼を殺すことにつながるはずです」

「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいよ」

 話を聞いて、コリンダは思った。やはり非戦闘員の仕事もあるのだ。ぜひ上手いことそちらへ納まりたい。あいにく読み書きができないので司書は無理だが、何かほかにもいろいろあるはずだ。例えば料理人とか。とりあえず、マーシャルアーツの訓練で適当に手を抜けばいいだろうか。「などと考えていそうな顔ですね?」

 不覚にも図星を突かれ、コリンダは目を泳がせた。「そんなことないよ」

「本当ですか? 誤解がないよう言っておきますが、修道院内での雑事は基本的に持ちまわりですよ。統括する立場の者らも例外なく、人狼狩りに駆り出されます。そもそも人材不足ですから。例外は司書と会計係、あとは看護係くらいですね。高度な専門的知識が必要なので、教育するにしても下地がないと難しいですから、大抵はもともと教養のある良家の者が選ばれます。農夫の娘には夢のまた夢でしょう」

「そんなぁ……」コリンダはひざをついてうなだれた。

「やれやれ、これでは先が思いやられますね」

「まあまあシスター・イロナ、私はむしろ見込みがあると思うけれどね。昔の君だって似たようなものだったじゃないか。マーシャルアーツの訓練を抜け出して、湖で竜を探していたのはどこの誰だったかな?」

 イロナは顔を紅潮させて、ユディカにボディブローを食らわせた。

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