10
サンダが殺された夜、つまり初めて双子が寝室を分けさせられたあの夜、イロナはヤーノシュから頼みごとをされた。
「あんなほこりっぽい部屋で寝るのヤだよ。ねえ、イロナ代わって」
「べつにいいけど」
「それでね、せっかくだから、しばらく入れ替わって生活してみない? いつもはボクだけイロナの格好してるけど、今回はイロナもボクの格好をするんだ」
「いいわね。おもしろそう」
イロナは何の疑問も抱かず受け入れた。指を噛まれたときはおどろいたが、いつもどおりのヤーノシュに戻っていた。突然部屋を分けさせられたことも不満だった。何より、もう女装を嫌がっているのかと不安だったのに、彼みずからそんな提案をしてきたのだ。そんなのうれしいに決まっている。やはりこれからも、ふたりでひとりの双子なのだ。
そうしてこの四日間、双子はずっと入れ替わって過ごしていたのだ。利き腕を見れば一目でわかるはずなのに、誰にも気づかれることはなかった。ただ一人、マリチカだけは違和感をいだいている様子だったが。
まさかヤーノシュが人狼だとは、夢にも思わなかった。そもそも、人狼の脅威にさらされている実感がなかった。ずっと蚊帳の外に置かれていたし、肝心の死体も見られていない。結局のところ本気にしていなかったのだ。心のどこかでは、母も使用人たちも病気で寝込んでいるだけだと信じていた。
けれども、その幻想は砕け散った。おのれの半身が醜いバケモノへと変貌する様を見た、今となっては。
イロナは逃げた。父親が上げる断末魔の叫びに耳をふさぎながら。どこをどう走ったのかわからない。気づいたら屋敷の外へ出ていた。村の教会まで逃げるのだ。そこまでたどり着ければきっと助かる。
背後からわずかな足音が聞こえる。イロナを追って来ている。だんだん近づいてくるのがわかる。獣臭さと血生臭さが強くなっている。気のせいだと信じたいが、振り返って確認するのがこわい。
疲れで脚がもつれそうになる。いつもの追いかけっこだったら、もっと長く走っていられるのに。息が苦しい。脇腹が痛い。目がまわる。
「――アレ?」
いつの間にかイロナはもう走っておらず、地面に仰向けに倒れていた。青空がまぶしいのでさえぎろうとしたら、手が真っ赤に染まっていた。脇腹を押さえていた手だ。
太陽を背にして、人狼がこちらを物欲しげに見下ろしている。血まみれになった左手の爪をしゃぶりながら。
「どう、して……?」
その問いに人狼は首をかしげ、「どうしてって、そんなの決まっているじゃないか。知っているでしょ? 好物は最後まで取っておく主義なんだ」
べつにそんなことを訊いたつもりはなかったが、その答え自体は腑に落ちた。目の前の人狼が間違いなくヤーノシュだと、否応なく理解させられた。怪物になっても、ヤーノシュはヤーノシュのままなのだ。ヤーノシュのままで、屋敷の人間を皆殺しにしたのだ。そして今度は、イロナを殺そうとしている。
「そんなにおびえなくても大丈夫だよ。実を言うと、昨日の夜は予定外のことが重なっちゃってね。一度に三人も食べるハメになっちゃったから、正直おなかいっぱいなんだ。だからまだ食べない。人狼狩りが来るまで、あと一日余裕があるし」
「……でも、このままだとわたし……たぶん死ぬけど……」
「えっ?」
脇腹の傷口から血がどんどんにじみ出てくる。あまりの痛さで息も絶え絶えだ。
「もう、イロナが逃げるからだよ。この状態じゃ上手く手加減できないんだから。……でも、まいったなぁ。どうしよう? 手当てのしかたとか全然わからないよボク。包帯とか適当に巻いておけばいいのかな。ドロッチャ先生もさあ、ラテン語だの幾何学だのより、そういう役に立つこと教えてほしかったよね。まあとりあえず、屋敷へ戻――」
「――ホォォゥワッチャァァァアアアアアアアアーッ!」
突如、何者かが奇声を上げながら、ヤーノシュに飛び蹴りを食らわせた。
ヤーノシュは不意打ちを左腕で防いだが、次の瞬間、そこが粉々に破裂した。「グワア!」
「浅いか」
闖入者は妙齢の修道女だった。血と肉片を浴びながらも顔色ひとつ変えず、すかさず追撃しようとする。
危険を察知したのか、ヤーノシュは驚異の身体能力で飛び退き、一気に距離を取った。
彼女は修道女としてはかなり奇妙だった。尼僧服は下半身にスリットがあり、脚が付け根近くまであらわとなっている。ただし煽情的な印象が感じられないのは、女とは思えないほど隆々と盛り上がった筋肉のせいだろう。
しかしそれ以上に奇妙なのは、その肌が染め抜いたように真っ青な点だ。それこそ、頭上の青空のように。
「……なるほど、あなたが人狼狩りだね。到着するのは明日じゃなかったの?」
「ああ、そりゃアレだろ? 普通の人間が普通に急いだときの日数だろ? アタシらは特殊な訓練を受けてるからね。……つってもこの様子じゃあ、結局遅すぎたようだが。せめて嵐がなければ――まあ言ってもしょうがないか。とにかくやるべきことをやるだけだ」
シスターは右半身になり、足を肩幅より広めに、左足のカカトを上げて立った。脇を締めて左拳をほお骨のあたりに、右拳は敵に突き刺すような位置で構える。
「聖フーベルトゥス女子修道会ヘルマンシュタット女子修道院修練長、シスター・エーディト。さあ、食事の続きがしたけりゃかかってきな」
「……やーめた」
「な、なに?」
ヤーノシュは人狼の毛皮を脱ぎ捨て、人間の姿に戻った。
「どういうつもりだ? 降参してくれるのか?」
「そういうわけじゃないけど、おばさんと戦うのはわりに合わなそうだから、ここは退散させてもらうよ。左腕なくなっちゃったし、そもそも今おなか減ってないし」
「誰がおばさんだ。というか、腹が減ってないだと? おいクソガキ、昨夜は何人食いやがった?」
「三人だよ。ちょっと予定が狂っちゃったんだけど、結果的にはよかったみたい。だってそうじゃなかったら、おあずけなんてとてもガマンできなかったもの」
シスターはいまいましげに舌打ちした。「そりゃけっこうなことだ。ガマン出来てえらいぞ。……逃がすと思うか?」
「ボクを追いかけてたら、ゆいいつの生き残りが死んじゃうけど、それでもいいの?」
シスターが横目にちらりとイロナを見やる。
「絶対死なせないでね。ボクの大事な半身なんだから」
そう告げるや、ヤーノシュは背を向けて遁走した。シスターもすぐさま駆け出そうとしたが、逡巡した様子で立ち止まった。
そのあいだにヤーノシュの姿が見る見る遠ざかっていく。人狼に変身していないのに、ふだんイロナとかけっこしていたときとは、比べものにならない速さだ。あれでは馬でも追いつけるかどうか。あっという間に見えなくなってしまった。
シスターは疲れたようにため息をつき、イロナのそばに歩み寄った。「お嬢ちゃん、ありゃアンタの身内か?」
「……弟……双子、なの……」
「そうかい。姉思いの弟でうらやましいね。アイツはアンタを助けろと言ったが、アンタ自身はどうだい? 助けてほしいか?」
「……死に、たくない……たぶん……」
「そりゃよかった。あのガキを見逃した甲斐があるってもんだ」
ただし、とシスターは付け加えて指を一本立てた。
「助けてほしかったら、一つだけ条件がある。アンタにはアタシと同じ、人狼狩りになってもらうよ」
「なん、で……?」
「うちの修道会は人材不足なんでね。修練長のアタシが現場に出張る始末だ。理由はわかるだろ? 危険な仕事だし、何より見た目がコレだ。こういう機会は逃さないようにしないと。選ばせてやるだけありがたいと思いな。それに、アンタにとっても悪い話じゃない。いずれまた、アンタの弟が襲ってくるかもしれないぞ。だから身を守るすべはあったほうがいい。まァその代わり、命懸けでほかの人狼とも戦ってもらうわけだが」
ムチャクチャだ、とイロナは思った。実質選ぶ余地などない。首を縦に振らなければ、このまま見殺しにされるのだから。
「……わかった」
「よし。そういえば、まだ名前を訊いてなかったね」
「イロナ。アラニュ・イロナ」
「イロナか。平凡な名前だね。アタシはエーディト、よろしく」シスターは小さな黒い丸薬を取り出した。「ほぉらイロナ、こいつを飲むんだ。パラケルスス印のローダナムだ。味はひどいが、痛みがやわらぐ」
言われたとおり飲み込むと、確かに痛みが軽減された。それどころか気分が落ち着いて、何だか妙に心地よい。先ほどまで実の弟に殺されかけたとは思えないほど、幸福な気持ちだ。そして徐々に眠くなってきた。
「うん、ハデに血は出てるが、思ったより傷は浅いね。これならすぐ処置すれば大丈夫だ。安心してお眠り」
シスターが針と糸を手に、傷口を縫い合わせていく。わずかに痛みがあるだけで、ほとんど何も感じない。まるで肉体と精神が切り離されたような感覚。
そのまま泥のなかへ沈み込むように、イロナは意識を手放した。
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