ドロッチャはおのれの浅はかさを呪った。

 トデラシが人狼でないことはわかっていた。昨晩もその前の晩も、彼とベッドをともにしていたのだから。しかし、今夜もまたあの男に凌辱されると考えたら、とても自制などできなかった。それがよもや、あそこまで上手くいってしまうとは。おかげで本物の人狼は野放しのまま。今夜も誰かが襲われるかもしれない。いや、確実に襲われるだろう。どうにかして身を守らなければ。

 これまでの現場はすべて、密室ではなかった。扉は施錠されておらず、また無理やりこじ開けられてもいない。内鍵のないワイン貯蔵庫は別として、サンダとクララが二人ともうっかり施錠し忘れたとは思えない。おそらく、みずから人狼を招き入れてしまったのだろう。その点、今のドロッチャに油断はない。

 となると、やはりマリチカのことが心配になってくる。旧友を頼ってこの屋敷へ来たのも、トデラシの脅迫に唯々諾々と従ったのも――結局耐えられなかったが――すべては愛しい娘のため。自分だけ生き延びても意味がない。

 しかし、人狼を警戒するようマリチカにどう伝えたものか。トデラシが人狼ではないと確信しているわけを訊かれたくない。理由を知って気に病んでほしくないし、そもそも母親の情事を娘に聞かせるのは抵抗がある。

 悩んでいてもしかたがないので、とにかくマリチカを自室へ呼び寄せた。今夜はこの部屋でいっしょに寝てもらおう。いざというときは、身を挺してでも守ってみせる。

「母さん、トデラシさんは人狼じゃないんだよね? 昨日は母さんと一晩じゅうセックスしてたし」

 ドロッチャはベッドに突っ伏した。

「……あれ? もしかして気づかれてないと思ってたの? だって部屋、隣だよ? そりゃ聞こえるって。声ガマンしてたつもりだろうけど、全然抑えられてなかったし」

「やめて……それ以上言わないで……」

「もう、そんなことより、今は人狼のことでしょ。ねえ、イロナお嬢さまもここで寝てもらったほうがよくない? 一人にしておくのは心配だよ」

「……それもそうね。何ならヤーノシュ坊っちゃまもいっしょのほうがいいでしょう。男でも子供は狙われるし」

「ダメ!」マリチカは突然声を荒げた。

「いきなりどうしたの? もしかしておふたりが部屋を分けられたから気にしてる? あれは奥様が神経質すぎただけよ。それに今は非常事態だし」

「そうじゃない。そうじゃないの……」マリチカは言いにくそうに口ごもっていたが、やがて自信がなさそうにつぶやいた。「ヤーノシュ坊っちゃま……人狼、かも」

「ヤーノシュ坊っちゃまが人狼?」

 マリチカの訴えに、ドロッチャは思わずそのまま問い返した。その可能性をまったく想定していなかったからだ。

「あのね、サンダさんが殺された最初の朝から、何だか坊っちゃまの様子がちょっと変わった気がするの。上手く言えないんだけど、今までと何かが違うような」

「気のせいじゃない? そもそもこんな状況だし、いつもと様子が違っても不思議じゃないわ」

「でも、トデラシさんは人狼じゃないんだよね。だったら候補はあと三人しかいない。人狼は男なんでしょ。坊っちゃまだって男だよ」

「いや、でもさすがに、坊っちゃまが人狼だとは……」

 ドロッチャは愕然とした。あらためて言われてみると、はっきり否定できるだけの材料が見つからない。

 そんなことが本当にありえるだろうか、あんなかわいらしい男の子が人狼などと。まだ人狼の姿を直接見たわけではないが、想像のなかにあるその姿と、ヤーノシュの華奢で繊細な身体つきが、どうしても結びつかない。だがそれでも、マリチカの疑念を笑い飛ばすことは出来なかった。

 考えてみれば、人狼のことなど何も知らないに等しいのだ。実際、暴れるのは満月の夜だけだと思い込んでいた。子供が人狼でないとなぜ言い切れるのか。

 ヤーノシュは子供だが男だ。女と比べて人狼に狙われる可能性は小さい。ならば放っておいても大丈夫だろう。ドロッチャは自分に言い聞かせる。

「……わかったわマリチカ。お招きするのはイロナお嬢様だけにしましょう」

「ありがとう母さん」マリチカは心底安堵した様子でほほ笑んだ。

「それじゃあ、さっそくお嬢様を呼びに――」

 と、そのとき、誰かが部屋の扉をノックした。

 室内に緊張が走る。まさか人狼――シャーンドルかファルカシュか、はたまたヤーノシュかもしれない。何食わぬ顔で迎え入れられ、ドロッチャたちを食い殺すつもりか。

 たぬき寝入りでやりすごすのは無理だ。扉の隙間から明かりがもれてしまっている。拒絶されればあきらめ、べつの獲物へ向かってくれるかもしれない。これまでの人狼の慎重さからすれば、じゅうぶん期待できる。とはいえ、力ずくで入ってこないという保証はない。

「――先生、ドロッチャ先生。まだ起きているのでしょう? ここを開けて」

 その声に、ふたりはため息をついて胸を撫で下ろした。

「すみません、お待たせいたしました。イロナお嬢様」

 ドロッチャが扉を開けると、廊下に寝間着姿のイロナが立っていた。その腕に枕をかかえている。

「先生、お願いがあるのだけれど、わたしをこの部屋に泊めてくれないかしら。お母さまがいなくなっちゃったから、一人だとさびしくて」

「ええ、もちろんかまいませんよ。どうぞこちらへ」

「ありがとう。あら、マリチカもいたのね」

「…………」

「実を言いますと、私たちもお嬢様と同じことを考えておりまして。ちょうどこれからお招きしようと思っていたのですよ。ねえマリチカ――マリチカ?」

 マリチカは震えていた。まるで寒空の下に放り出されたかのように。だが一方で、顔からは大量の汗が噴き出している。

 そしてその瞳は見開かれ、イロナをただ一心に見つめていた。

「どうしたのマリチカ? 大丈夫? 顔が青いわ」

「イロナお嬢さま、いえ――」マリチカはのどの奥から絞り出すように、その問いを口にした。「――あなたはどっちですか?」

 するとイロナの姿をした者は、愉しげに破顔一笑し、「それじゃあ、答え合わせね」

 そう言って、スカートのすそをたくし上げた。


 エルジは自室に逃げ帰り、壁のすみでひざを抱えてうずくまっていた。奥歯をガタガタふるわせて、目からは止めどなく涙があふれ出てくる。それでいて、笑わずにはいられなかった。もはや笑うことでしか自我を保てない。

「アハアハアハ、ありえない……ありえない……あんなバケモノ、勝てるわけがないっ……」

 なぜちゃちなテーブルナイフで倒せると思い込んでいたのか。今となっては不思議でしかたない。こんな刃物で殺されるのは人間だけだ。まぬけのファルカシュくらいだ。

 アレが人狼だ。あのおぞましい怪物が。思っていたよりも想像通りの見た目で、にもかかわらず、思っていたよりはるかにおそろしかった。

 正直なめていた。しょせんは大きめの狼が二本脚で立っているだけだろう、と。とんでもない。数時間前までのおのれに平手打ちを食らわせてやりたい。アレは違う。何かが違う。具体的にどこが違うかは上手く言葉にできないが、普通のケダモノとは何かが決定的に違っている。

 サンダもクララもカタリンもシュテファンも、抵抗した様子もなく殺されていた。いくら屋敷が広いとはいえ、悲鳴ひとつ聞こえなかったのはなぜか。寝込みを襲われたり不意を突かれたりしたのだと考えていたが、おそらく違うのだ。アレを目の前にしたら、普通の人間は何もできなくなってしまう。メデューサの顔に恐怖して石と化すように。

 もっとも、エルジにはそれが有利に働いた。うかつにも悲鳴を上げなくて済んだのだ。人狼が獲物の捕食に夢中だったこともあるだろう。腰を抜かして立てなかったので、必死に床を這って逃げた。

 気づかれていない、気づかれていないはずだ。だから大丈夫、ここに人狼は来ない。

 けれども、そこでエルジはあることに気づいた。

 いつのまにか下着が湿っていて生温かい。どうやら恐怖のあまり失禁していたらしい。

 見れば自分がうずくまっている位置から部屋の扉まで、這いずった跡が残っていた。まるでナメクジのように。

 まさか、この跡がずっと続いているのでは――コン、コン。

「ひぃッ」

 誰かが部屋の扉をノックした。

 間違いない、人狼だ。尿の跡を追って来たのだ。

 ――コン、コン。コン、コン。

「エルジ、エルジ、ここを開けて。起きているでしょ?」

 殺される。ここにいては殺される。生きたままハラワタを貪り食われる。嫌だ。それは嫌だ。

「あ、あ、ああっ――うぐっ、ふぐぅ――」

 いや、待て。落ち着け。冷静になれ。

 これまでの犯行現場はすべて、密室ではなかった。人狼は力ずくで押し入っていない。吸血鬼は家主に招かれなければ、家へ入れないという。ひょっとしたら人狼も同じなのかもしれない。だいたい、今夜はもう満腹だろう。これまでも一夜に一人ずつしか食い殺していないのだから。こうして息をひそめていれば、そのうちあきらめていなくなるはず――コン、コン。コン、コン。コン、コン――バリィッ!

「うひゃああああっ」

 木製の扉が紙切れのように、爪で引き裂かれた。

 空けられた隙間から、室内へ顔が覗き込む。そこに満面の笑みを浮かべて。

「――こんばんは」

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