7
暗闇のなか、ファルカシュは自室のベッドにもぐりこみ、ひざをかかえて震えていた。今日は朝からずっとこの調子だ。
トデラシは本当に人狼なのだろうか。シュテファンのときは結局間違っていたものの、あからさまな証拠があった。けれどもトデラシの場合、単に言動が怪しかったというだけだ。もし濡れ衣だとすれば、本物の人狼に今夜も誰かが殺される。優先して狙われるのは女だから、自分はひとまず安全だろうが、問題はそのあとだ。
トデラシが人狼でなければ、容疑者は残り二名しかいない。もちろんファルカシュ自身は違うのだから、そのときはシャーンドルが人狼ということになる。実際あらためて考えてみれば、怪しいと言わざるを得ない。シュテファンとトデラシを人狼と結論づけて監禁したのは彼だし、カタリンが浮気していたことも本当に知らなかったのかどうか。現状、男で殺されたのはシュテファンだけだ。それが単なる巻き添えではなく、妻を寝取られた腹いせだと考えれば辻褄が合う。
しかしたとえこの推理が正しいとしても、ファルカシュが押し通せるわけではない。残り二名になった時点で、もはや正体を隠す意味はないのだ。シャーンドルはピストルを持っているし、そもそもバケモノ相手に勝てるはずがない。つまりトデラシがハズレだったら、その時点で敗北は必定だ。
かと言って、トデラシが人狼なら万事解決とも言い切れない。シャーンドルはワイン貯蔵庫なら人狼を閉じ込められると思っているようだが、はたして本当にそうだろうか。確かに地下にあるので頑丈な造りだし、扉も分厚く出来ている。けれども、人狼が脱出できないと絶対に言い切れるだろうか。自分たちは人狼のことなど何もわかっていないのではないか。満月の夜にだけ正気を失って暴れるわけではなかったし、弱点であるはずの銀で正体を見分けることもできなかった。だいたい人狼の姿を直接見てもいない。ただ脱ぎ捨てた毛皮を見ただけだ。貯蔵庫の扉を破壊できないとなぜ断言できるというのか。閉じ込められたまま、人狼狩りの到着をおとなしく待つとは思えない。それこそ今夜にも、皆殺しにされるのではないか。
「……よし、逃げよう」
そうだ。逃げるなら今夜しかない。今夜を逃してしまえば逃げられなくなる。紹介状もなしに従者の仕事を失いたくなくて躊躇していたが、もはやそんなことを気にしている場合ではない。命のほうが大事だ。
そうと決まれば善は急げ。取るものもとりあえず、自室の窓から外へ脱出した。みなが寝静まるまで待っている余裕はない。誰にも見咎められないよう用心しつつ、まっすぐ馬小屋へ向かう。
この屋敷に馬は三頭おり、どれもファルカシュが丹念に世話をしているのでよくなついている。そのうち一番脚の速い馬を選んだ。逃亡するだけなら、ただの職務放棄で臆病者のそしりを受けるだけだが、馬泥棒は明確な犯罪者だ。しかし、やむをえまい。夜道を徒歩では狼の群れから逃げきれない。人狼から避難して狼に殺されるのでは本末転倒だ。
ファルカシュは万が一にも馬が騒がないよう、慎重に鞍を取りつけ、「逃げるのね」
その声におどろき振り返ると、寝間着姿のエルジが立っていた。
「エルジさん、どうしてここに」
「たまたま窓の外を見ていたら、ね。臆病なあなたのことだし、時間の問題だとは思っていたけれど」
「そ、そうですか……あの、見逃してくれません、か……?」
「いいわよ」
「やっぱりダメですよね――って、えっ? 今なんて?」
「いいわよ。見逃してあげる。ただし、私もいっしょに連れて行ってくれないかしら?」
「いっしょに、って、なぜ?」
「なぜって、人狼がこわいのは私も同じだし。というか女の私のほうが、あなたよりも狙われる可能性は大きいでしょう。奥様が死んだ今、私がこの屋敷に残る意味はないし、逃げようって考えるのがそんなにおかしなこと?」
「いえ、おかしくはありませんが……べつにわざわざ僕といっしょに来なくても……というか逃げたいってことは、トデラシが人狼だと信じていないわけですよね。僕が人狼かもしれないとは考えないんですか」
「あなたが人狼なら、このタイミングで逃げる必要はないでしょう。それに疑わしさで言えば、旦那様のほうがはるかに怪しいし」
「それはまあ……」
ファルカシュは正直乗り気ではなかった。獲物を逃すまいとする人狼に追われては本末転倒だ。それこそシュテファンの二の舞になりかねない。かと言って本音を口にする勇気はないし、どうやって拒否すべきか。
「もちろんタダとは言わないわ。無事に逃げ延びられたら、お礼になんでもさせてあげる」
「……えっ? 今、なんでもって」
「ええ、なんでもよ。なんでも」
エルジは蠱惑的にほほ笑みながら歩み寄り、ファルカシュの身体に抱き着いてきた。胸のやわらかい感触が伝わり、うろたえた次の瞬間、首筋に激しい熱を感じた。
ほとばしる血潮を眺めながら、わけもわからないうちにファルカシュの意識は途絶えた。
「バカな男。この私が、カタリンお嬢様の仇も討たずに、尻尾を巻いて逃げるわけがないでしょう」
念のためメッタ刺しにしてから、銀のテーブルナイフについた血を死体の衣服でふき取り、エルジはひと息ついた。上手くいった。
エルジはマリチカと似た境遇だ。物心ついたころから、カタリンの侍女となるべく育てられてきた。そのことを疑問に思ったことはない。生涯仕えるつもりでいた。彼女にとって、カタリンはおのれのすべてだったのだ。
それがまさか、あんなことになってしまうとは。自分の浅はかな判断が、あるじを死なせてしまった。せめておのれの手で人狼を始末しなければ、この罪は到底許されない。
先ほども言ったように、ファルカシュが人狼の線は薄かっただろう。しかし、見逃してやれるほどの確証はなかった。だから殺した。どうせ人狼かどうかの判別はできない。そもそも変身されたら勝ち目はないし、その前に殺すしかないのだ。
「あと二人、今夜じゅうにケリをつけ――うっぷ――げぇええっ!」
エルジは血だまりに胃の内容物をぶちまけた。すえた臭いが周囲に充満する。血の臭いとあいまって、よけいに吐き気がこみ上げてくる。
「……大丈夫、大丈夫……私はやれる……やれる……お嬢様のためなら、私はなんだってやれる……」
次はトデラシだ。確実に殺しやすいほうからかたづけていく。本当ならファルカシュを先に仕留めるつもりではなかったが、逃げられそうになったので順番が前後してしまった。
とりあえず、ドロッチャからワイン貯蔵庫のカギを取り返さなければ。食事を運ぶためとでも言えば納得するだろう。シャーンドルが頑なに禁じたため、トデラシは閉じ込められてから一食も与えられていない。
エルジは自室へ戻り、返り血の付着した寝間着を着替えた。それからドロッチャの部屋へと向かう。
その途中で、思わぬ人物と遭遇しそうになった。見つからないようとっさに身を隠す。
「イロナお嬢様……? いったいどこへ……」
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