天気は大荒れとなり、雨音と雷鳴が屋内にいても騒々しい有様だった。もっとも、夏のトランシルヴァニアでこのような雷雨は毎年恒例なので、住民は慣れっこだが。

 アラニュ一家もいっさい気にすることなく、夕食のひと時を楽しんでいた。丈夫な屋敷に住んでいる分、村の農夫たちよりも安心して過ごせている。

 イロナは食事もそこそこに、おしゃべりで夢中だ。「それでね、マリチカから聞いたんだけど、この雨と雷はスコロマンスの魔法使いが竜に乗って操ってるんだって。スコロマンスっていうのは魔法の学校で、そこの先生は悪魔なんだって」

「イロナ、いいかげんルーマニア人の迷信を真に受けるのはやめなさい。異教的だし、そもそもデタラメだ」

「あなた、いいではありませんか。マリチカは死んだ父親から聞かされたおとぎ話を、大切にしているだけですよ」

「べつにマリチカのことを責めてはいないさ。これは受け手側の問題だ。作り話を楽しむのはかまわない。しかし、それを信じ込むのはよくないぞ」

「お父さまは、マリチカがウソつきだっていうの?」

「責めていないと言っただろう。あの子自身、ウソをついているつもりなんかないだろうさ。だけどねイロナ、世の中には間違ったことを、本当だと思い込んでしまう人間もいるんだ。それを正すのはとてもむずかしい。とてもね。だからせめて、間違ったことをそれ以上広げないように、自分のところで留めておきなさい」

 イロナは首がねじ切れそうなほど首を傾げた。

「……まあいずれわかるようになる」

 その間イロナとは対照的に、ヤーノシュは黙々と料理を口に運んでいた。よほど空腹だったのだろうという食べっぷりだ。

「ヤーノシュ、そのようにがっついて食べてはいけませんよ。はしたない」

「だってお母さま、最近いくら食べてもおなかが」「スキあり!」

 イロナはヤーノシュの皿から、ポガーチャを奪い取った。

「ああっ、最後にとっておいたのに!」

「そうだったの? てっきりいらないのかと思って」

 ヤーノシュは泣いた。

「こらイロナ、お行儀が悪いですよ。ほらヤーノシュ、わたくしのをあげましょうね」

 ヤーノシュは泣き止んだ。そもそもウソ泣きだったのだが。双子のイロナにしか見破れない演技力だ。

 一方ヤーノシュは、イロナが奪ったポガーチャをほとんど食べず、こっそりふところに隠したことに気づいていた。それとテーブルナイフも。

 食後、イロナとヤーノシュは連れ立って屋根裏へ向かった。

「マリチカに教えてもらったんだけど、パンにナイフを刺して作ったコマを屋根裏の床で回し続けると、家に雷が落ちないんだって」

「自分のポガーチャ使えばよかったじゃない」

「だってしょうがないでしょ。うっかり全部食べちゃったんだもの。そんな細かいこと気にしてるから、ヤーノシュはどーていなのよ」

「どーていってなに?」

「よく知らないけど、クララがファルカシュに言ってたの。これだからどーていは、って。……ところでヤーノシュ、訊きたいことがあるのだけど」

「なに?」

「最近あなた――あー、えっと、屋根裏ってどうやって上がるのかしら?」

「知らないよ。そもそもこの屋敷に屋根裏ってあるの?」

「屋根があるんだから、屋根裏だってあるでしょ」

「っていうか、屋根裏と天井ってどう違うんだっけ? 屋根の裏側なら、一番上の階の天井が屋根裏じゃない?」

「それもそうね」

 その解釈で納得したふたりは、とりあえず二階の一番端にある空き部屋へ入った。

 すると稲光に照らされた部屋の真ん中で、メイドがひとり、床にしゃがみ込んでいた。

「……サンダ、こんなところで何してるの?」

 サンダはおどろいた様子で振り返った。「イ、イロナお嬢様にヤーノシュ坊ちゃまもっ」

 見れば、床の上で何かコマのようなものが高速回転している。

「えっと、これはですね、ちょっとしたまじないでして。パンとナイフで作ったコマを屋根裏の床でまわすと、落雷除けになるんです」

 イロナはポガーチャとテーブルナイフを取り出した。

「おや、ごぞんじでしたか。二個になれば効果も二倍ですね」

 さっそくコマを作り、イロナも床の上でまわそうとしてみた。けれども、何度くり返しても一向に上手くいかない。ヤーノシュも挑戦してみるが、結果は同じだった。

「コツがあるんですよ」そう言ってサンダは、いともたやすくイロナのコマもまわしてみせた。

「ホントにぃ? そっちの試させてよ」イロナは高速回転するサンダのコマをつかみ取ろうとし、「痛っ!」

「お嬢様! 大丈夫ですかッ」

 右手の人差し指に小さな切り傷が出来ていた。誤ってナイフの刃を触ってしまったのだろう。

「いけません、早く手当てしないと」

「これくらい平気よ。なめとけば治るわ」イロナは血がにじみ出た指先を、ヤーノシュの眼前に突き出した。

「エッ? ヤーノシュ坊ちゃまがなめるんですか?」

「あったりまえでしょ。赤ちゃんじゃあるまいし、自分の指をなめるなんて幼稚なことしないわ」

「さいですか……」

 ヤーノシュは差し出された指を口にくわえた。傷口に唾液を擦り込むように、舌で丹念になめる。

「ヤーノシュ、そのくらいでいいわ。ありがとう。……ちょっと、ヤーノシュ? ねえ、もういいって。いいかげんくすぐったいし。ねえ、放し――痛ぁっ!」

 指に噛みつかれたとわかったときには、イロナは反射的にヤーノシュを蹴り飛ばしていた。

「坊ちゃま! 大丈夫ですか!」

 とっさに介抱しようと近づいたサンダは、その有様を見て絶句した。

 ヤーノシュは恍惚とした表情を浮かべて、口の端からよだれをこぼしながら、股間を大きくふくらませていた。


 サンダは迷いつつもこの一件を上司のエルジに報告し、さらにエルジからカタリンへ伝えられた。

 その結果、さっそく今夜から双子の寝室を分けることに決まり、サンダとクララがヤーノシュの新たな部屋を、大急ぎで用意させられるハメになった。掃除しながら、とんだとばっちりだとクララには散々ぼやかれた。

 どうにかヤーノシュの就寝時間に間に合わせ、それから食べ損ねていた夕食を摂り、もろもろの雑事を済ませたころには、すっかり真夜中になってしまった。もうくたくたに疲れてしまい、眠くてしかたない。

 けれども床に就こうとしたところで、誰かがドアをノックした。

 こんな遅くにいったい誰だろうか。クララでないことだけは確かだ。彼女ならノックなんてしない。カギがかかっていようとおかまいなく、ドアノブをガチャガチャまわしてから呼びかけてくる。

 まさか、エルジが追加の仕事でも持ってきたのか。あるいは男性使用人の誰かか。どちらにせよやっかいごとに違いない。警戒して様子をうかがっていると、「サンダ、起きてる?」

「イロナお嬢様?」

 サンダはドアを開けた。するとそこに声の主が立っていた。何やら不機嫌な様子だ。

「どうしたのですか? こんな遅くに」

「ねえサンダ、あなたさっきのこと、お母さまに告げ口したでしょう?」

「えっと、それは、まあ……」

「やっぱり! あなたのせいで、ヤーノシュと部屋を分けられちゃったじゃない。ヤーノシュがいないと、雷がこわくて眠れないのに。責任取ってあなたがいっしょに寝て」

「……奥様と旦那様のところか、マリチカのところへ行けばいいじゃないですか」

「行かなかったと思う? どっちも寝ちゃったみたいで、ノックしても全然反応なかったの」

 本音を言えば、サンダは断固拒否したかった。子守はメイドの仕事にふくまれていないのだ。けれども追い返したら、そのときはヤーノシュのもとへ向かいかねない。もしそこで問題が起きてしまったら、最悪クビだろう。

 使用人というのは、ひとつの屋敷でずっと仕えるわけではない。数年で転職し、より上の立場へステップアップする。そしてそのためには、上司から紹介状を書いてもらうことが必須だ。しかし解雇の場合はそれがむずかしくなる。紹介状なしでは経験が認められず、またイチからキャリアを積まなければならない。

 また、イロナに対して一抹の同情心がないでもない。実際、理不尽な話ではある。サンダの脳裏には、昼間に目撃した光景が焼きついている。自分のことは棚に上げてヤーノシュを責めるとは、母親の風上にも置けない。ましてや、イロナは何ひとつ悪くないのだ。

 だが何より、そんな細かいことはどうでもよく、いいかげん眠気が限界だった。くだらない押し問答をしてないで、さっさと寝たい。

「……わかりました。使用人の硬いベッドでよろしければ」


 今夜の出来事で、カタリンは非常にショックを受けていた。なまじ双子の容姿が似通っていたせいもあって、ヤーノシュが男だという認識に欠けていたからだ。愛するわが子が、まるで得体の知れないケダモノにでもなってしまったかのように感じた。

「ああ、なんて卑しい。なんてあさましい。メイド相手ならまだしも、よりによって実の姉に対して」

「あまり責めてはかわいそうだよカタリン。男の子というのは、あのくらいの歳で性に目覚めるものだ。むしろ今回の件で一番戸惑っているのは、坊ちゃま自身かもしれない」

「……そういうものかしら」

「そういうものだよ」

 深夜、カタリンとシュテファンはふたたび地下のワイン貯蔵庫で逢い引きしていた。ここならば、屋敷内に嬌声が漏れ聞こえることもないので、思う存分カラダを重ねることができる。

 これまではシャーンドルが留守のときに密会していたが、今日は昼間に中途半端で終わっていたため、欲求不満だった。とてもこらえきれるものではない。夫と眠るベッドからこっそり脱け出すなど、自殺行為もいいところだ。だんだん歯止めが利かなくなっている。

 小さなロウソク一本に照らされた薄暗い部屋で、ふたりは獣のように交わった。あまりに夢中だったので、いつのまにか雷雨がやんでいたことも気づかないまま。

 雲ひとつない夜空に、青白い月が浮かんでいた。墓から這い出してきた女の死体じみた、不気味な満月が。

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