第二章
1
一本の大きな木の周囲を、ふたりの子供がぐるぐるまわっている。ドレスを着た幼い子供たち。顔立ちも髪の長さも同じ。どうやら双子のようだ。
当然ながら声もそっくりで、澄んだ歌声が綺麗なハーモニーを奏でている。
ヘビとぐろ巻く
シュトルデルになりたくて
シュトルデル巻く
ヘビになりたくて
ふたりより少し年上のメイドがそれを眺めていて、愉快そうに笑いながら目をまわしている。
やがてふたりは走るのをやめて、メイドの前に並んだ。
「はい、マリチカ。どっちがイロナで」「どっちがヤーノシュ?」
「えーっと」マリチカと呼ばれたメイドは頭をかかえて、うんうんうなり、「……右がヤーノシュさまで、左がイロナさまですか?」
「それでいいの?」「ホントにいいの?」
「はい」
「じゃあ答え合わせね」「正解はこちら!」
そう言って、ふたりはスカートをたくし上げた。下着を身に着けておらず、毛も生えていない未成熟な性器があらわになる。そして違いは一目瞭然になった。
「ザンネーン!」「ハッズレー!」「右がイロナで」「左がヤーノシュでしたー」
「いやいや、むずかしすぎですよぉ」
そこへ、中年の女性が息を切らしながら走って来た。「捜しましたよイロナお嬢様、ヤーノシュ坊ちゃま。お昼休みはそのくらいにして、そろそろ屋敷へお戻りください。お勉強の続きです」
「えー、もうちょっといいでしょドロッチャ先生」「まだ遊び足りない」
「ダメです。もうじゅうぶん楽しんだでしょう。それとヤーノシュ様、なんですかその格好は? ちゃんと自分の服を着てください。もう十歳になるのですから、アラニュ家の跡継ぎとしての自覚をですね」
「違うわ先生。わたしはイロナよ」「ヤーノシュはボク」
「……とにかく、さっさと着替えてお勉強しましょう」
「ヤだ」「ヤだ」
ふたりはマリチカの背に隠れた。「助けてマリチカ」「マリチカだってもっと遊びたいでしょ?」
「いやでも、母さんに逆らったらあとが怖いし……」
「マリチカ、あなたはわたしの侍女になるんでしょ? だったらわたしの家庭教師じゃなくて、わたし本人の命令にしたがうべきじゃない?」
「……それもそうですね」
「マリチカ!」
「ごめん母さん。でも母さんもふだんから言ってるよね? おふたりに精いっぱい尽くしなさいって」
「それは甘やかせという意味ではありませんッ」
母の怒りに満ちた視線から、マリチカは目をそらし、「それじゃあ次はかくれんぼしましょうね。おにはドロッチャ先生です」
「わーい」「逃げろ逃げろ」
「あ、お待ちください!」
子供たちは林へ逃げ込んだように見せかけて、逆に屋敷へ戻って来た。地方の小領主なのでたいした広さではないが、子供が隠れられる場所はいくらでもある。
イロナたちと分かれ、ヤーノシュは厨房へ。ここは使用人の食堂も兼ねている。低級の使用人たちは、ご一家に姿を見せず働くのが通例であり、逆に一家も使用人のスペースに足を踏み入れるべきではない。言い換えれば、ドロッチャもヤーノシュがここに隠れているとは思わないだろう。絶対に入らないよう教え込んでいるのだから。つまりバレたら間違いなく叱られる。
「おや? イロナお嬢様」料理人のトデラシが気づいて声をかけてきた。「どうしたんですかい、腹でもすきましたか?」
「かくれんぼしてるのよ。おにはドロッチャ先生。……おなかもすいてる」
ヤーノシュは横目にかまどを見た。置かれている大鍋から、グヤーシュのイイ匂いが漂ってくる。
「昼の分のまかないでさァ。まだ余ってるので、よければお出ししますが」
「うん、食べる」
トデラシがグヤーシュを銀の皿に盛ろうとしたのへ、近くに置いてあった木の皿を左手の指で差した。「そっちのお皿で食べたい」
「一家の方々は銀食器と決まってるんですがね」
「それ使用人のごはんなんでしょ? だったら食器も使用人のにしないと」
「べつにかまいやせんが……ただ、木の食器はシュテファンの私物なので、ほかの使用人たちが使ってるやつでよろしいですかい?」
「それでいいわ」
そうして錫の皿に盛られたグヤーシュが出されると、ヤーノシュはよほど空腹だったのか、勢いよく食べ始めた。
「そんなにあわてて食べたら、のどに詰まらせますぜ」
「急がないと、ドロッチャ先生が来ちゃうかもしれないでしょ」
「わかりました。休憩がてら俺が足止めしてきますから、ちゃんとゆっくり食べてくださいや」
「ありがとう。たぶんまだ東の林にいると思う」
トデラシは通用口から外へ出た。
すると離れた林まで向かうまでもなく、ドロッチャがこちらへ来たところだった。外を捜しても見当たらないので、子供たちが屋敷に戻っていると勘付いたのだろう。
彼女はトデラシに気づくと、警戒した様子で身構えた。
「よぉ先生。どうしたんだこんなところで? 今の時間は双子に勉強を教えてるんじゃなかったか」
「トデラシさん……おふたりを見ませんでしたか? 恥ずかしながら、逃げられてしまって……」
「だから言っただろ。アンタにゃ家庭教師なんか向いてない。アンタはしょせん、ちょいと学があるだけのお嬢様なのさ」
「……すみませんが急いでいますので」
足早に立ち去ろうとしたドロッチャを、トデラシは手を壁に突いて通せんぼした。
「いいかげん観念して、俺と結婚しろよ」
「そのことはすでにおことわりしたはずです」
「アンタだって、このままでいいとは思ってないだろ。アンタら親子がこの屋敷にいられるのは、ひとえに奥様との友情があればこそだ。逆に言えば、アンタの立場は奥様の気まぐれひとつで、崩れちまう。たとえ娘がお嬢様の侍女になれたとしても、その母親ってだけじゃな」
ドロッチャはくやしげに顔をゆがませるが、反論の言葉は出てこない。ただ目をそらすだけ。
「けど俺と結婚すれば、そんな憂いはなくなる。俺はいずれこの屋敷を辞めて、ビストリツァで宿を始めるつもりだ。サイコーにメシの美味い宿をな。それを妻として手助けしてくれ。アンタにとって悪くないハナシだと思――」突然、トデラシの頭に枕が落ちて来た。
「ごめんなさーい」二階の窓から身を乗り出し、メイドのクララが満面の笑みで手を振っている。「ホコリをはたいてたら落としちゃって。おケガはありませんか?」
「てめこのクソアマ――ったく、気をつけろっての!」トデラシは舌打ちしてその場を立ち去った。
ドロッチャは枕を拾い、二階の窓を見上げた。「助かったわ」
「何のことでしょう」クララはわざとらしく首をかしげた。「ところで申し訳ないのですが、それをこちらに投げていただけますか」
上へ放り投げられた枕を、クララは難なくつかみ取った。砂ぼこりをはたき落としてからベッドに戻す。
「ドロッチャ先生も災難ね。あんなクソ野郎に言い寄られて」クララは同僚のサンダに話しかけた。「こんな田舎になんで男の料理人がいるのか不思議だったけど、納得だわ。どうせ前の屋敷でも、似たようなトラブル起こしたに決まってる」
「ねえ、このこと奥様に報告したほうがよくない? それで辞めさせたらいいのよ」
「さすがにそこまでする義理はないわ。ドロッチャ先生が自分で訴えればいいことでしょ」
「でも、先生は自分の立場に負い目があるみたいだし、自分からは言い出しづらいんじゃないかな……」
「まあ、アンタの好きにしたらいいわ。あたしはよけいなお世話だと思うけど、その考えを押しつける気はないし」
「……やっぱり伝えてくる」
「あ、そ。じゃあさっさと済ませて来て」
「えっ、今から?」
「あたりまえでしょ。こういうのは早いほうがいいんだから。ほら、行った行った。まだ仕事はクソほどあるのよ」
「す、すぐ戻るねっ」
サンダは言われるがままに駆け出した。当主は出かけているので、奥方のもとへ向かう。今の時間は書斎で読書していることが多い。
しかし一階へ降りたところで、奥方が地下への階段を降りていく姿を見かけた。何やら挙動不審だ。そちらにはワインの貯蔵室がある。そこは基本的に屋敷の主と、管理を任された執事しか入ることを許されていない。サンダは不審に思いつつ、声をかけるタイミングを逸したまま彼女を追った。
奥方はカギが開いていた扉を開けて、地下室に足を踏み入れる。
「シュテファン」奥方は笑顔で執事に抱き着いた。「来ちゃった」
「奥様」
「言ったでしょう? カタリンと呼んで。今この時この場所では、わたくしたちは主従ではなく、ただの男と女」
「カタリン……もうこんなことはやめにしよう……」
「どうしてそんなことを言うの? もうわたくしのことを愛していないの?」
「もちろん愛しているよ。だからこそ言っているんだ。こんなことは君のためにならない。もし旦那様にバレたら、私は職を失うし、キミも離縁されてしまう」
「そしたら、ふたりで大手を振って生きていけるのね」
「冗談を言っちゃいけない。世間知らずのお嬢様と、奥方を寝取った使用人、まともな働き口なんてない。路頭に迷うのがオチ――」
カタリンは不意打ち気味にシュテファンの唇を奪ってだまらせた。シュテファンも抵抗せず受け入れる。フランス人のごとき濃厚なくちづけが一分近く続いた。
「たとえどうなろうと、あなたといっしょなら乗り越えていけるわ、きっと。もちろん、積極的にそうなりたいわけではないけれど」
「だったらせめて、もう少し自重すべきだよ。近ごろはほとんど毎日じゃないか。これじゃバレるのも時間の問題だ」
「言われなくてもわかっているわ。わかってはいるのよ、そんなこと。……でも、しょうがないじゃない。カラダがうずいちゃうんだもの」カタリンはシュテファンの手を取り、強引に自身の乳房をにぎらせる。「シャーンドルはわたくしを愛してくれているわ。だけどそれは、家族を慈しむ愛。わたくしは妻である前に、一人の女なの。燃え盛るような情欲で、この身を焦がしていたいのよ」
「ああ、カタリン――」
シュテファンがカタリンの服を脱がそうとしたそのとき、誰かが地下室の扉をたたいだ。「奥様、奥様。大変です」
カタリンはあわてふためくシュテファンを制して、「大丈夫、エルジは味方よ」
ふたりは乱れた衣服を正してから、室内に侍女のエルジを招き入れた。「どうしたのエルジ。いったい何ごと?」
「旦那様がもうすぐ村の視察から戻られます」
「お帰りは夕方ではなかったの?」
「地下にいたのでわからなかったでしょうが、先ほどから雷が鳴り始めたのです。今の季節ですから、大雨になるのを危惧して切り上げたのではないかと。たまたま窓の外を見ていたおかげで、旦那様の駆る馬に気づけましたが、あやういところでした。おそらくあと五分ほどで到着されるでしょう」
「そう、ありがとう。わたくしのエルジェーベト」
「もったいないお言葉です。私には奥様の幸せがすべてですから」
ようやくシュテファンは冷静さを取り戻し、「では、使用人一同で出迎えるよう仕向けましょう。奥様はひとまずここに」
「カタリン」
「……カタリンはここに隠れていてくれ。頃合いを見て脱出を」
「わかったわ」カタリンは名残惜しそうに、シュテファンの唇にキスした。
シュテファンとエルジは地下室を出て、階段を昇る。
「では、私はほかの使用人に伝達してまいりますので。シュテファンさんは先に外で待機を」
「わかりました。ところで、窓から旦那様の姿を見つけたとき、雷も見えましたか?」
「ええ」
「近づいてくる雷を指差してはいませんよね?」
エルジはいぶかしげに、「それが何か?」
「ごぞんじありませんか? ああ、ザクセン人だけの迷信なんですね。お気になさらず」
「そんなふうに言われると、よけい気になりますよ。もし指差してしまったらどうなるのです?」
「いやなに、気が狂うなんて言われていますがね、しょせん迷信ですよ迷信。子供のころから聞かされているので、つい意識してしまうだけです」
そうして、アラニュ・シャーンドルと従者のファルカシュが帰宅したときには、使用人たちが玄関前に集合していた。ただし料理人のトデラシ、家庭教師のドロッチャ、イロナの侍女であるマリチカは除外されている。つまり執事のシュテファン、侍女のエルジ、メイドのクララとサンダ、以上四名だ。
「おかえりなさいませ旦那様」シュテファンの声に続いて、ほか三名も唱和した。
「うむ。出迎えご苦労」
その様子を、イロナとマリチカは二階の窓から見ていた。視界の端に入っていただけで、実際にはドロッチャの動きを監視していたのだが。
「おっかしいな。母さん、どこにも見当たりませんね。……ハッ! まさか、とっくに戻って来て――」
イロナは物憂げにため息をついた。
「お嬢さま、どうかしましたか? 何か気になることでも?」
「……ねえマリチカ……最近のヤーノシュ、なんかヘンじゃない?」
「ヘン? どこかです?」
「なんかさ、やたらご飯たくさん食べるようになったよね。前はすごい少食だったのに。それでおなかの調子は悪いみたいだし。きっとムリして食べてるんだわ。でもなんで?」
「ああー……お嬢さま、それはアレです。成長期です」
「成長期?」
「ヤーノシュ坊ちゃまも男の子ですからね。むしろこれまでが少食すぎたんですよ。これからぐんぐん背も伸びて、どんどん旦那様みたいにかっこよくなりますね」
「そんなのダメよ。そしたら、わたしと双子じゃなくなっちゃう」
「まあ、今みたいに女装はできなくなりますねえ。絶対似合わなくなりますし。そうなったらさすがに坊ちゃまも嫌でしょう。……いや、ひょっとしたら逆かもしれないですね」
「逆?」
「いいかげん女装をやめて、男らしくなりたいんじゃないでしょうか? それでたくさん食べて、大きくなろうとしてるのかも」
「でも、今日だって普通に遊んでたじゃない。嫌がる素振りなんて、全然……」
「それはまあ、お嬢さまには言い出しづらいでしょう。ショック受けるに決まってますし――あっ」
「そんな……わたしたちは二人で一人の双子なのに、隠しごとなんて……」
「いや、えっと、その」
マリチカはイロナをなだめるようにその頭をなで、窓の外を、空の向こうの雷雲を指差した。
「見てくださいお嬢さま。あの雲のなかに竜がいるんですよ」
「……竜?」
するとイロナは、先ほどまでの落ち込みぶりが嘘のように、キラキラと目を輝かせ始めた。
「竜はですね、ふだんはヘルマンシュタットから南の山奥にある、湖の底で眠っているんです。小さいけど深い湖で、そこに石を投げ込むと、怒った竜に雷を落とされちゃいます」
「じゃあ、あの雷は誰かが石を投げたからなの?」
「いえ、それはですね、スコロマンスの魔法使いが竜にまたがって、雷雨を起こさせているんです。スコロマンスは魔法を教える学校で、先生は悪魔なんですよ」
「へえ、悪魔が……ねえ、待って? あの雲、こっちに近づいてきてない?」
「そうですね」
「たいへんだわ。ドロッチャ先生が雷に打たれちゃう」
「安心してください。いいおまじないを知っています。パンにナイフを突き刺してコマにして、屋根裏の床でまわしたら、雷が避けてくれますから。さっそくトデラシさんにでも頼んで――」
「ようやく見つけましたよ」
その声に振り返ると、ヤーノシュを小脇に抱えたドロッチャが立っていた。今度こそ遊びの時間は終わりのようだ。
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