3
メイドの朝は早い。まず一家が起床する前に、各寝室を除く屋敷内の清掃を済ませなければならない。アラニュ家は田舎の小領主のため、さほど厳格ではないが、本来なら下級使用人ごときが一家に姿を見せてはいけないのだ。徹底している屋敷だと、使用人専用の隠し通路や階段が備わっていることもめずらしくない。
したがって朝寝坊は厳禁だ。にもかかわらず、今朝はサンダがいつまで経っても起きてこない。ふだんはどちらかというと、クララが起こされる側なのだが。
「もう、サンダったらしょうがないんだから」
言葉とは裏腹にうれしそうな薄ら笑いを浮かべながら、クララはサンダの部屋へ向かった。
アラニュ家の屋敷は規模に比べて、使用人の数がいささか少ない。数世代に渡る相続での領地分割がたたり、じゅうぶんな使用人を雇う余裕がないのだ。具体的にはエルジが家政婦長を兼任、シュテファンとファルカシュは下僕の仕事もしており、さらにファルカシュは馬屋番と狩猟番も担っている。庭師にいたっては近くの村から通いだ。そしてメイドは二人しかいない。
そんな劣悪な環境の数少ないメリットが、下級使用人でも個室を持てるという点だ。何しろ部屋が余っているのだから。
「ちょっとサンダ! いつまで寝て――」
クララがいつものクセでドアノブをまわしてみると、なぜかカギがかかっていなかった。めずらしいこともあるものだ。
「サンダ?」
室内に足を踏み入れたクララは、次の瞬間、屋敷じゅうに響きわたる金切り声を上げた。
ベッドの上に、サンダの惨殺死体が横たわっていた。
「人狼です。間違いありません。これは人狼のしわざです」
遺体の腹部はハラワタごと失われていた。野生の熊か何かに食い殺されたようなありさまで、とても人間の所業とは思えない。
一方で、殺害現場である部屋の窓は戸締まりされており、出入り可能だったのは廊下とつながるドアだけだ。野生の獣が侵入したというのもありえない。
そして何より、現場には人狼の毛皮が脱ぎ捨てられていた。昨晩は満月だったし、もはや疑う余地はない。
クララの悲鳴に駆けつけ、惨状を目の当たりにしたシュテファンは、すぐにシャーンドルを起こして報告した。そしてシャーンドルの命により、屋敷内の人間がすべて広間に集められた。ただし子供たちを除いてだが。
屋敷の戸締まりは、執事であるシュテファンに一任されている。昨晩もいつもどおり消灯前にちゃんと確認したし、けさ事件が発覚したあとにも再確認した。結果として、外から何者かが侵入した形跡は見当たらなかった。
したがって、こう結論づけざるを得ないだろう――人狼はこの屋敷の住人に交じっている。
「旦那様、ここは一刻も早く村の教会に連絡して、人狼狩りを呼び寄せるべきでしょう。お命じいただければ、すぐにでも私が」
「いや、ダメだ。おまえにかぎらず、その役目を男にはまかせられない。選んだ者が人狼だったらやっかいだからな。教会へ行かずにウソをつくかもしれんし、あるいはそのまま逃げる可能性もある。そうなれば、今度は領民たちが危険にさらされてしまう」
「そういうことでしたらあたしが」
「待ちなさいクララ。あなた、顔色が悪いですよ。遺体を見たショックで、かなりまいっているのでしょう。少し休んでいなさい。村へは私が行きますから」
「いいえ、ここは私が行きます。エルジさんにもクララにも、メイドの仕事があるでしょう。サンダが亡くなって、ただでさえ人手不足なんですから」
「み、みなさんどうしてそんなに冷静なんですかっ? このなかの誰かが人狼なんですよ? サンダを食い殺したんですよ!」
「落ち着きなさいファルカシュ。われわれが狼狽えれば、それだけ人狼の思うつぼだ」
「これが落ち着いていられますか。人狼狩りに助けを求めたところで、この屋敷へはいつ来てくれるんですか? 明日ですか? 明後日ですか? それまで人殺しとひとつ屋根の下で過ごせと?」
「おいおいファルカシュ、ちったあ頭を使えよ頭を。次の満月まで丸々一ヶ月あるんだ。人狼も変身できなきゃただの人間だろうが。バレたら終わりなんだし、うかつなまねはしねえって」
「それはそうかもしれないが……そいつが人殺しということに違いはないのでは……」
「そうそう、みんな念のため言っておくぞ。むやみに人狼を特定しようとしないように。疑心暗鬼になるのはよくないからな。聞いた話によると、人狼狩りは人狼を瞬時に見分けることができるらしい。それまで辛抱してくれ」
「あの、教会には私が行くということでいいのですよね」
「そうですね。ドロッチャ先生、よろしくお願いします。ちなみに馬には乗れましたよね」
「ええ、大丈夫です。こう見えて乗馬は得意でして」
「待ってあなた。やはりドロッチャ一人で行かせるのは危険じゃないかしら。途中で野盗に襲われでもしたら」
「……言われてみれば、確かにそうだな。人狼ばかり気にしていて失念していた」
「いやいやおふたりとも、村はすぐ目と鼻の先ですよ。さすがに神経質すぎるのでは」
「いや先生、何ごとも油断しないに越したことはない」
「ねえ、わたくし思ったのだけれど、殿方に三人で行っていただくのはどうかしら。そうすれば確実に二人は人間だし、何かあっても対処しやすいのではなくて?」
「なるほど、それは名案かもしれない。しかしそれだと、必然的に居残りの男は一人だ。そいつが人狼だったらと思うと、さすがに不安だろう」
「でしたら、居残りは旦那様にしていただきましょう。このような雑事を押しつけるわけにはまいりませんし、何より奥様と寝所をともにしていらっしゃる以上、旦那様だけが確実に人狼ではありませんから」
「いや、そう断言するのは早計というものだ。カタリンが熟睡しているあいだにベッドを抜け出したかもしれんし、そもそも人狼自身も無自覚な可能性だってある。満月で正気を失っているあいだの記憶がなくても、不思議ではない。……となるとカタリン、とりあえず寝室を分けたほうがいいだろうね」
「確かに、そのほうがわたくしも安心だわ。でも誤解しないでね。あなたのことを疑っているわけではないから」
「わかっているさ。あくまで念のためだ。とはいえ、サンダが欠けた状態でよけいな仕事を増やすのも酷だし、イロナの部屋でかまわないね?」
「ええ」
「あの、パカーラさんがそろそろいらっしゃる時間では? いっそ彼に教会への伝言を頼んではいかがでしょう」
「おお、その手があったか。どうせ今日は庭いじりどころではないし。この際、事件が解決するまで暇を与えてもいいかもしれんな」
「お待ちください。サンダの遺体はいかがします? あのまま放置しておくわけにもいきませんし、埋葬するなら早いほうが。その場合、パカーラさんに墓穴掘りを手伝っていただきたいのですが」
「……いや、埋葬はひとまず保留にしておこう。なるべく丁重に葬ってやりたいからな。幸い、腐りやすい内臓は食べられているし、ワイン貯蔵庫にでも安置しておけば、一週間程度は大丈夫だろう」
「えっ? あそこに死体を置くのですか?」
「シュテファン、何か問題でもあるのか」
「いえ……ワインに妙な風味がついてしまったらと……」
「気にしすぎだ。ワインはしっかり密閉されているのだから、問題あるまい。――ああ、そうだ。人狼の毛皮もいっしょに置いておこう」
「……旦那様がかまわないのでしたら」
「旦那様、話し合いも一段落ついたみたいですし、そろそろ朝食にしませんかね。このままだと食べ損ねちまいますよ」
「それもそうだな。トデラシ、用意してくれ」
「仕込みが出来なかったのであまり凝ったものは作れやせんが、何か希望はございますかい」
「べつに何でもかまわない」
「奥様は?」
「私もべつに。子供たちに訊いてちょうだい」
「了解しやした」
一方、蚊帳の外に置かれた子供たちは、サンダの部屋へ侵入しようと試みていた。
大人たちは子供に血生臭い話を聞かせまいと、何も教えてくれないが、盗み聞きでおおよその事態は把握していた。昨夜サンダが人狼に殺されたということも、彼女の遺体がいまだ自室のベッドに寝かせられたままということも。
その上で、双子が人間の死体を見てみたいと言い出したのだった。せがまれたマリチカは、針金一本で鍵穴と格闘している。
「ねえねえマリチカまだー?」
「もう待ちくたびれたよぉ」
「おっかしいなぁ……ちゃんとお父さんに教えてもらったとおりやってるのに……」
「早くしないとうんちもれちゃう」
「いや、さっさとトイレ行ってください」
「ぬけがけしない?」
「心配しなくても、ちゃんと待ってますから。ねえヤーノシュ坊ちゃま」
「もちろん」
「約束よ。やぶったらおしおきだから」
あわててトイレへ向かうイロナの背中を横目に見送りつつ、マリチカはピッキングを続ける。
「ヤーノシュ坊ちゃま、ちゃんと見張っててくださいね」
「見てるよ?」
「いやアタシじゃなくて、誰かこっちへ来ないか見てください」
「だって約束したし、マリチカがぬけがけしないか見張ってないと」
「それはどっちかっていうと、坊ちゃま次第なんですけど……」
どうにも作業に集中できない。人狼の正体が気になるせいだ。いったい誰なのだろうか。シャーンドルか、シュテファンか、ファルカシュか、トデラシか。あるいはヤーノシュという可能性もあるのではないか。まだ幼いが、彼もまた男だ。少なくともマリチカにとっては、男として意識している相手だ。今もマリチカの背後で舌なめずりしているのでは――
「お、いたいた。ヤーノシュ坊っちゃん」
その声におどろき振り返ると、料理人のトデラシが近づいてくるところだった。マリチカはすばやく針金を服のそでに隠す。
「捜しましたよ。何か朝食の希望はありますかい? 今そこでイロナお嬢様に聞いたら、目玉焼きが食べたいって言ってましたが」
「ポガーチャ」
「昨日の夕食もポガーチャでしたけど、同じでいいんですかい? ママリガも出せますよ」
ママリガはトウモロコシの粉で作った粥だ。トランシルヴァニアでは定番の主食と言える。
「ううん、ポガーチャがいい」
「了解しやした。ところでマリチカ」トデラシはふいにマリチカの手首をひねり上げた。「サンダの部屋の前で何やってんだ?」
そでから針金がこぼれて床に落ち、ささやかな音を立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます