父親の肌が青くなると思い込んでおびえ切ったコリンダを、どうにかなだめすかしてから、イロナと神父はバサラブの家をあとにした。現場で確認すべきことは確認し終えた。

「やはり、バサラブさんは人狼ではありませんでしたね。私の思ったとおりです。彼は娘思いのすばらしい父親ですから。もっとも、あなたにとっては残念な結果かもしれませんが」

「わたしも最初からアタリを引けるとは思っていません。容疑者を一人減らせたと思えば御の字です」イロナは神父の耳元に唇を寄せて、「ただし、本当に減らせたのなら、ですが」

 神父はピクリとカラダをふるわせて、「どういう意味です?」

「ひとまず教会へ戻りましょう。誰かが聞き耳を立てているかもしれませんから」

 イロナが犯人なら、彼女の一挙手一投足を注意深く監視するだろう。今のところ尻尾はつかめていないが、近くにひそんで盗み見ている可能性はある。

 その後、ふたりはひたすら無言で歩いて教会へたどりついた。屋内に入って扉をしっかり閉めてから、イロナはようやく口を開く。

「現場に毛皮が残されていたのは、やはり不自然なのです」

 人狼が直射月光を浴びてでもそうする理由があるとすれば、せいぜいバサラブに濡れ衣を着せるくらいか。実際イロナは彼を疑った。あるいは、もし村人たちが人狼当てを始めていた場合、早い段階で吊るし上げられていたかもしれない。けれども、ラダのほかに犠牲者が出ていなかったおかげか、そうはならなかった。陥れるのが目的にしては、やることが中途半端なのだ。

 この疑問を解決する答えが、ひとつ存在する。

「今回の事件は、人狼の犯行に見せかけた偽装の可能性があります」

「偽装?」

「ええ。それなら、毛皮がこれ見よがしに放置されていたことの説明がつきます」

 毛皮で変装して目撃される手もあるが、下手にあれこれ工作するより、遺体とともに見つかったほうが手っ取り早い。また、人間なら月光から身を守る必要はない。

 人狼のしわざに見せかける一番の利点は、人狼でなければ容疑者から外れられることだ。イロナは人狼を確実に識別できるが、逆に言えば犯人捜しをその能力に依存し切っている。ゆえに犯人が人狼でなければ、完全にお手上げだ。そのような事態を防ぐため、聖フーベルトゥス女子修道会では毛皮の回収に努めているものの、少なからず取りこぼしは出てしまう。

「ヨーシュカ神父、そもそも人狼を見たという村人はいますか?」

「……いえ。少なくとも私が聞いたかぎりは、一人も目撃者はいません。あの日は火曜でしたから」

 ルーマニア人にとって火曜日マルティは不運をもたらす日だ。糸紡ぎは全面的に禁止され、手を洗ったり髪をとかしたりするのも避けられる。日没後には火曜日の悪霊マル・サラが力を増すため、うかつに出歩くと連れ去られかねない。

 もちろん単なる迷信だ。しかし、だからこそ犯人には都合がいい。誰かに犯行を目撃されるリスクが減るからだ。そして、わざわざその日を選んだとすれば、血に飢えた人狼の突発的な犯行とは考えにくい。

「ますます怪しいですね」

「で、ですが、状況から見て怪しいだけで、偽装だと断言できる根拠はまだないのでしょう?」

 もし人狼が関わっていなかった場合、ただの殺人事件だ。人狼狩りのあずかり知るところではない。イロナは悪用されかねない毛皮の回収で満足して帰ってしまう。妊婦を殺した殺人犯はそのまま野放しだ。この一週間まったく動きがなかったことから、犯行を重ねる気はないと考えられるが、断定はできない。村をあずかる神父としても、看過できることではあるまい。

「そうですね。今のところ可能性は半々といったところです。確証もなく事件を放り捨てるつもりはありませんので、そこは安心してください。とはいえ、ただ闇雲に捜査する気もありませんが」

「と、言いますと?」

「ラダの遺体を調べさせてください。それでハッキリします」

「なんと、墓をあばくというのですか」神父はつかみかからん勢いでイロナに詰め寄った。「死者の眠りをさまたげるつもりはないと、あなたはそうおっしゃったではありませんか」

「あのときとは事情が変わりました。それとも」イロナはヘビのように舌でちろりと唇をなめ、「わたしに村の男全員とキスしろと?」

「それは」神父は目を泳がせた。その場面を想像してしまったのだろうことは、視線を下に落とせば一目瞭然だ。彼はイロナの視線に気づいたのか、前かがみになった。

「もちろん、ほかに手がなければそうしますよ。村じゅうの妻と母親を敵にまわすのはおそろしいですが。ああ、ちなみに聖銀水の手持ちはもうありませんから」

「しかし遺体を見ただけで、それが人狼の犯行だと判別できるものなのですか? 確かに無惨な状態でしたが、例えば熊や狼に襲われた死体とて、あのように食い散らかされることもあるでしょう。人間の手でそれらしく見せることも不可能とは思えません。それでも私が人狼のしわざだと確信したのは、そばに人狼の毛皮が落ちていたからで……いえ、ちょっと待ってください……。シスター・イロナ、まさかあなたは」

「おそらく、あなたの想像通りですよ。ヨーシュカ神父」

「同じことをするつもりですね。あの毛皮にしたのと、まったく同じことを」

「ええ」

 人狼が貪り食った獲物の傷口には、少なからず唾液が付着しているはずだ。そこにイロナの尿をかければ、明確に反応を示すだろう。

 これはほかの体液についても同様だ。人狼は獲物を性的に凌辱する場合がある。ただの獣はそんなことをしないので手がかりにはなるが、人間が偽装することも可能だ。やはり尿で調べてほうが確実だろう。

「バカな。そんなまねを許すわけには……だいたい、バサラブさんが承知するはずが……」

「そうでしょうね。大事な娘さんの遺体に放尿させてくださいなんて大それたこと、私は口が裂けても言えません。もっとも、彼はべつの理由で拒否するかもしれませんが」

「べつの理由?」

「彼が犯人だとすれば、遺体を調べられたくはないでしょうから」

「はぁ、バサラブさんが犯人?」神父は困惑した様子で、「いったい何を言っているのです? ついさっき、彼が人狼ではないと証明したばかりではありませんか」

「人狼に見せかけた犯行なら事情は変わります。せっかく嫌疑を逃れられたのに、偽装工作がバレたら台なしですから」

「……本気で言っているのですか? 彼はラダの父親なのですよ。奥さんを亡くしてから、男手ひとつで彼女を育て上げたというのに。人狼と化したならまだしも、正気のまま愛娘を殺すはずがない!」

 神父はイロナの襟首をつかみ上げた。意外に腕力が強く、首筋が圧迫されてイロナはあえいだ。しかしあえて抵抗はしない。

「そんなことは、私の知ったことじゃありません。私はただ、可能性の話をしているだけですよ。遺体を調べて人狼の犯行でなかったとわかれば、バサラブさんが犯人だろうがどうでもいい」

「……つまり裏を返すと、人狼の犯行だとハッキリすれば、今度こそバサラブさんの嫌疑は晴れるわけですね」

「同時にあなたの嫌疑も、ですね。墓があばかれるのを妨害している以上、そう疑わざるをえません」

 とはいえ、人狼の毛皮の入手は非常に困難をきわめる。修道会の目を逃れて闇市場に流れる品は、目が飛び出るほど高額だ。寒村の住民がたやすく手に入れられるものではない。ゆえに容疑者はかなり絞られる。例えば、そう――

「傲慢だ。あなたはあまりに傲慢だ。一方的にわれわれを疑っておいて、こちらにその真偽を示せと命じるのですか」

「その言い方には語弊がありますね。わたしはこの村の人々のために、真偽を確かめようとしているだけです。言ったでしょう? 事件を放り捨てるつもりはないと」

「この村を救うためだと、あくまでそうおっしゃるわけですか」

 神父の視線がイロナの瞳を射抜く。その奥の奥まで見透かそうとするかのように。イロナはけっして目をそらさず、まばたきひとつしなかった。

 やがて彼はイロナの襟首から手を離し、「ひとつ、聞いてもよろしいですか?」

「どうぞ」

「なぜわざわざ私に、墓荒らしの許可を求めるのです? 反対されるのは目に見えていたでしょうに。ラダの墓の場所など、探せばすぐ見つかりますよ。夜中にでも勝手に掘り起こせばいい」

「愚問ですね」イロナは得意げに、「固い土の下に深く埋められた棺桶を、女の細腕で掘り起こせと?」

 その言葉に神父は目を丸くして、こらえきれずに失笑した。

「墓荒らしに協力していただけますか」

「……いいでしょう。村を守るためです。よそ者のあなた一人に、泥をかぶせるわけにはいきません。この村の神父は、私ですから。ただし、ひとつだけ条件があります」

「いくら童貞を捨てたいからと言って、ひとの弱みにつけ込むのはどうかと思いますよ」

「違います」

「おや、それは残念」

「えっ?」

 イロナは鼻で笑った。

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