3
「アドリアンから話は聞いとります。ラダの父、バサラブです」
「シスター・イロナです。このたびはご愁傷様です。お悔やみ申し上げます」
「こりゃごていねいにどうも。ほれコリンダ、おまえもあいさつせい」
「さっき会ったときしたわ」
「さっきはさっきだ。それが礼儀ってモンだぞ」
「はーい。こんにちはシスター」
ラダの家で彼女の父に出迎えられた。それと妹のコリンダと再会した。
イロナは首をかしげた。第一発見者が妹だと聞いて、少々不思議には思っていたのだ。「ラダは実家で暮らしていたのですか。彼女の夫は――」
「それは」バサラブは苦虫をつぶしたような顔で言いよどむ。
すると神父が耳打ちしてきた。「少々込み入った事情がありまして。のちほどご説明いたします」
「わかりました。――さっそくですがバサラブさん、娘さんの亡くなった部屋を見せていただけますか」
「……ええ。どうぞこちらへ。コリンダ、父さんたちは大事な話があるから、おまえは外で遊んどれ」
「森へ行っていい?」
「ダメだ。家のそばにいろ」
ラダの部屋は一通り掃除こそされていたものの、壁や床の血痕は落とし切れておらず、血生臭さもいまだ残留していた。血で汚れた寝具を廃棄したままのようで、フレームだけのベッドが置かれている。
「遺体を発見した際、あちらの窓は」
「開いとりました。ただ、ラダが寝る前に閉めたかどうかは。あの夜は季節外れの暑さだったんで。それに……」
「それに?」
「いや、何でもないですわ」
バサラブの顔に一瞬、怒りの感情が浮かんだのを、イロナは見逃さなかった。
「それで、朝になって彼女を起こそうとするまで、事態にまったく気づかなかったと」
「ええ。暑かったんでちょいと寝苦しかったですけど、眠れないほどじゃありませんでした。けど、もしおれが寝こけてなかったら、ラダはあんなことには」
「自分を責めてはいけません」とヨーシュカ神父。「人狼は邪魔が入らないように、ラダが目覚める間もなく殺したのでしょう。あなたのせいではありませんよ」
「でも神父様、ラダはイースターの日曜日、鐘が鳴ってるときに産まれたんですよ。神様から幸運を授かったはずだ。おれの落ち度じゃなかったってんなら、どうして神様はラダを守ってくれなかったンです?」
イロナはルーマニア人の迷信深さに辟易した。いちいち付き合っていられない。神父が返答に窮している隙に口を挟む。「この家に住んでいるのは亡くなった娘さんほかに、バサラブさんとコリンダの二人だけですか?」
「はい。うちのカミさんは、コリンダのとき産後の肥立ちが悪かったもんで、そのまま……」
「なるほど……。ではバサラブさん、ちょっと腰をかがめていただけますか?」
ヨーシュカ神父が意外に俊敏な動きで、二人のあいだに割って入った。「お待ちくださいシスター・イロナ。あなたまさか、またアレをやろうとしていませんか?」
「ええ。それが何か?」
「何か、じゃありません。――バサラブさん、ちょっと失礼」神父はイロナ引っ張って部屋の隅まで移動してから、「彼は自分の娘を殺されたのですよ。それをあなたは疑うと?」
「言ったでしょう? 例外はないと。自分の娘だろうと母親だろうと、人狼になってしまえば関係ありません」
頑丈な石造りならともかく、民家の戸締まり程度で人狼の侵入は防げない。その怪力でたやすく倒壊させられる。けれども窓は破損していないようだし、閉ざされていなかったと見るべきだろう。
ただし、それは人狼が外から侵入していたらの話だ。バサラブが犯人なら、犯行後に窓を開ければいい。
加えて、現場に毛皮が残されていた点も不自然だ。人狼が変身するときは皮膚の上に毛皮を形成し、もとの姿に戻るときは脱皮するように脱ぎ捨てる。つまり犯人は変身を解いて逃走したことになるが、それでは無防備な状態で直射月光を浴びてしまう。しかしバサラブが犯人であれば、外へ逃げる必要がないのだから問題ない。狡猾な人狼にしてはいささか短絡的だが、満月の夜ならさほど違和感はない。
「……あなたの言うとおりなら、どうしてコリンダは無事だったのですか。血に飢えた人狼なら、あの子を見逃すはずがない」
「人狼は少食でしてね。ラダのハラワタと胎児で、一晩の食事としては多すぎるくらいでしょう。とはいえ、今後も無事でいられるとはかぎりませんが。コリンダが犠牲になってからでは遅いのです」
神父は顔を赤らめて、「ですが、キスはさすがに……ほかに方法はないのですか?」
「より即効性があるのは、肛門に舌を――」
「もっとダメです。もっとこう、身体接触なしで見分ける方法は」
「一応なくもありません。例えば、最近になって下痢と嘔吐をくり返していたら怪しいですね。人狼になると、普通の食事を受けつけなくなるので」
「……いや、どうなのですかそれは? 下痢と嘔吐なんて、ちょっと体調を崩せば誰でもなりますよ。逆に治療目的で下剤や嘔吐剤を飲むこともありますし」
神父の懸念は間違っていない。聖銀水が生み出される前は、実際それらを手がかりに人狼を特定していたのだが、冤罪だらけだったらしい。人狼を処刑した翌日に新たな犠牲者が出るのも、めずらしくなかったそうだ。
「やれやれ、しかたありませんね」イロナは聖銀水の小瓶を取り出した。「これを飲ませてください。もし彼が人狼なら、全身から血を噴き出して死にます」
「なるほど、それが聖銀水ですか」神父は口ごもりながら、「しかし、肌が青くなってしまうのでは」
「何度も服用しなければ平気です」
そもそもパラケルススは人狼を病の一種と捉え、治療薬のつもりで聖銀水を生み出した。材料の銀が高価なことと、製造に高度な錬金術を要するため、量産はむずかしいものの、人間が人狼となるのを予防できる――厳密には人狼と化したとたん、体内に蓄積された銀のせいで即死するのだが。そのことを素直に教えたら反対されそうなので、イロナはだまっておくことにした。
「……わかりました。それでいきましょう。ただし、バサラブさんへの説明は私が。あなたの言動は誤解を招きかねないので」
「それはわたしのせいではなく、あなたが童貞だからでは?」
「そういうところですよ」
イロナから聖銀水の小瓶を受け取ったヨーシュカ神父は、バサラブに歩み寄った。
「お待たせいたしました」
「ご相談は終わりましたかい」
「ええ。それでバサラブさん、すみませんがこれを飲んでいただけますか」
「そいつは?」
「聖銀水という薬です。あなたも人狼が感染するといううわさはごぞんじでしょう」
「一応知っとります。でも確か、噛まれたらってハナシじゃあ?」
「直接噛まれなくても危険性はあります。あなたは人狼の毛皮に触れてしまっていますしね。ですがご安心ください。この薬を飲めばもう大丈夫ですから」
流れるようにウソをつくヨーシュカ神父の姿に、イロナは彼の評価をあらためた。てっきり潔癖なお坊っちゃんくらいに思っていたが、清濁あわせ呑む度量はあるらしい。
人狼という病が人から人へ感染するというのは俗説だ。実のところ、なぜ人が人狼になるのかはよくわかっていない。悪魔憑き、吸血鬼の亜種、本人に成り代わったシェイプシフター、満月を見すぎたせいで狂った等、さまざまな説があるものの、どれも立証されていない。
現状はっきりしている事実は二つのみ――人狼になるのは男だけということ、そして感染はしないということだ。女が人狼になった例は過去一件も報告されていないし、短期間のうちに同じ土地で人狼が二体以上出た例もない。性別に関しては、銀が月を象徴するのと同じく、女も月を象徴するからだと考えられている。実際、多くの神話で太陽神は男、月神は女だ。今後例外が出ないとは言い切れないが、聖フーベルトゥス女子修道会の二百年以上にわたる記録にもとづくので、それなりに信憑性は高い。
受け取った小瓶を、バサラブはうろんな目つきでためすすがめつしてから、イロナのほうを横目に見て、「神父様、こいつはアレですよね? 飲むと肌が青くなるっていう」
「ごぞんじなのですか? しかしご心配なく。一度ならまったく問題ないそうなので」
「ホントですかい? コリンダがそちらのシスターに聞かされた話だと、飲んだらたちまち青くなるって」
神父は非難がましくイロナを横目で見る。「本当ですか?」
「……確かにそう言ったのは事実ですが、あれはコリンダの誤解を解くためにしかたなく」
けれどもよくよく思い出してみれば、あのときコリンダに手こずらされた原因の半分程度は、神父が彼女によけいな知識を教えたせいではなかったか。責められるいわれはない気がする。どうも釈然としない。
「まあうちの娘のことですから、だいたい察しはつきますがね……オレだって人狼になりたかないし……」
口ではそう言っているが、不安に思っているのが顔を見ればまるわかりだ。このまま強引に飲ませることもできるが、初日から住民に不信感を与えるようなまねはしたくない。
「シスター・イロナ、この薬は全部飲み干さなければならないのですか?」
「いいえ。一口でもじゅうぶんです」
「そうですか。でしたら」そう言うや、神父はみずから小瓶をあおった。「ふむ、味はしないのですね。てっきり苦いのかと」
「ししし、神父様っ! イチャモンつけたオレが言うのも何ですけど、何もそこまでしなくたって」
「いえいえ。うっかりしていましたが、毛皮に触ったという点では私も同じですからね。これでひと安心です」
「神父様ぁ」
バサラブは恋する乙女のような熱い視線で、ヨーシュカ神父を見つめた。これでよく神学校時代に童貞と処女を守れたものだ。
それにしてもコリンダが女の子でよかった。イロナは心底安堵した。もし男の子だったら、力ずくで聖銀水を飲ませなければならなかっただろう。
ふとイロナが気配に振り向けば、コリンダがこっそりこちらの様子を覗き見ていた。その視線は、聖銀水の小瓶をあおる父親に向けられている。彼女の顔は、それこそ聖銀水を飲んだかのように、真っ青になっていた。
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