トランシルヴァニアの地は、マジャル人、セーケイ人、ザクセン人の三民族によって長年支配されている。けれども人口の大半は、ルーマニア人の貧しい農奴たちだ。ここミオリッツァ村も、そういった農村のひとつ。

「おーい、みんなー! 神父が言ってた例のシスターが駆けつけてくれたぞぉ!」

 イロナの姿を見た村人たちは、みな一様に嫌悪と期待が入り交じった視線を向けてきた。自分たちを助けに来てくれた救世主だと理解してはいても、青い肌の不気味な女に、生理的な不快感を覚えずにはいられないようだ。無理もない。イロナ自身、いつも鏡を見るたび怖気が走るのだから。

 村長に軽くあいさつを済ませてから、イロナは村の教会まで案内された。ルーマニア人の国であるワラキアやモルダヴィアは正教圏だが、ハンガリー王国の属領であるトランシルヴァニアはカトリック圏だ。伝統的に信教の自由が認められた土地柄ではあるが、設置された教会には一応、ローマ・カトリックの神父が赴任している。むしろそうでなければ、ヘルマンシュタットまで村の危機が伝わることはなく、こうしてイロナが派遣されてくることもなかった。

「お待ちしておりました。私が神父のヨーシュカです」

「聖フーベルトゥス女子修道会、シスター・イロナです」

 若い神父だ。神学校を出て数年といったところか。道すがらアドリアンから聞いた感じでは、村人たちからそれなりに信頼されている様子だ。思いのほか村の様子が落ち着いているのも、彼が上手くまとめ上げているおかげかもしれない。人狼が現れて一週間も経てば、普通はもっと殺伐としているものだ。ルーマニア人は迷信深いので警戒していたが、これなら安心だ。

「狩人の守護聖人、聖フーベルトゥスの名のもとに人狼を狩りたてる専門家集団……話には聞いていましたが、いやはや……正直おどろきました。まさかこれほど見目麗しいお嬢さんだとは……おっと、修道女に対して失言ですね」

 不気味な青い肌に対して美しいとは、お世辞にしても白々しい。イロナは自嘲気味にほほ笑んだ。もっとも男という生き物は、女の見目が多少悪くとも欲情できるものだが。

 ただしどちらかと言うと、神父は困惑している様子だ。こんなにも華奢な小娘では、人狼にエサをくれてやるようなものではないか――とでも思っているのだろう。とはいえ、その認識はあながち間違いでもない。なぜ人狼狩りが若い女なのかと言えば、もとをただせば人狼に対する毒餌だったからだ。

「さっそくですが、毛皮を見せていただけますか?」

「そうですね。こちらです」

 ふたたび外に出て、裏手へまわる。そこに生えている、もみの木の枝に毛皮が干されていた。ひどく獣臭いにおいが漂ってくる。

 それは一見すると狼の毛皮だった。けれどもよくよく観察してみると、明らかな違和感がある。体長が熊並みに大きいし、四肢のバランスもおかしい。それもそのはず、この生物は二足歩行するのだ。

 灰色の体毛には、ドス黒い血が乾いてこびりついている。この毛皮の生物自身の血ではない。

「ナイフ、斧、ノコギリ、猟銃などで試してみましたが、傷ひとつ付けられませんでした。刃物にいたっては、逆に刃こぼれしてしまったくらいです。間違いなく人狼の毛皮でしょう」

「いえ、もう一点確認が必要です」

 イロナは毛皮を枝から引き下ろし、地べたに裏向きで敷くと、またいで仁王立ちした。そして尼僧服のすそをたくしあげると、毛皮に向かって勢いよく放尿した。

「い、いきなり何をッ」神父はあわてて目をそらそうとしたが、目の前の光景に釘付けとなった。尿がかかった箇所から湯気が上がったかと思えば、発火して爆発的に燃焼したのだ。

 神父は呆然として放尿を眺め続けた。「おお、聖水――」

 火はすぐに消え、毛皮に残っていた肉片と脂が綺麗さっぱり燃え尽き、時間をかけてなめしたのと同じ状態になった。あとは洗って乾かすだけで使えるだろう。

「正真正銘、人狼の毛皮のようですね。見つかっている毛皮はこれ一枚ですか?」

「え、ええ」

「こちらは修道会のほうで買い取らせていただきます。残りの作業を村のかたにお願いしても?」

「かまいません。あとで私から頼んでおきましょう」

「それで、この毛皮が殺害現場に残されていたとのことですが」

「はい。犠牲になったのはラダという若い娘です。朝、彼女の妹が起こそうとして発見しました」

「妹というのは、コリンダのことですね」

「お会いになったのですか」

「村へ来る途中に森で。イヌバラを探していました。姉の好きな花だったと」

「そうでしたか。あの子は姉を慕っていましたからね。かわいそうに」神父は沈痛な面持ちで、「不幸中の幸いというべきか、コリンダは遺体を目にした直後に失神して、その際の記憶が抜け落ちているようです。大人でさえ直視にたえない有様でしたから。彼女は臨月だったのですが、あの大きくふくらんていた腹が、跡形も……」

 神父は言葉を詰まらせ、イロナに背を向けた。よほど凄惨な光景だったのだろう。もっとも、人狼に襲われたのならよくある話だ。人狼は女子供を貪り食らう。一度に両方味わえる妊婦は狙われやすい。

「本来なら棺へ納める前に、可能なかぎり見目を整えてやるところですが、それすら満足にさせてあげられず……」

「遺体はすでに埋葬を?」

「ええ。あまりにひどい状態でしたし、長時間そのままにしておくと、疫病の原因になりかねませんから。早めに埋葬するに越したことはありません。ルーマニア人の風習では、遺体の汚れをナイフで削り取ってでも清める習わしなので、説得には難儀しましたよ。かと思えば、吸血鬼になるかもしれないから火葬しろと言い出す者もいまして。いやはやまいりました」

「棺桶を掘り起こしていただくことは可能ですか?」

「ご冗談を」神父は失笑したがすぐ真顔に戻り、「本気じゃないですよね?」

「滅相もない。死者の眠りをいたずらにさまたげるつもりはありませんとも。……ただ、もしほかに埋葬が済んでいない方がいれば、ぜひとも遺体を調べさせていただきたい」

「ほかの村人は無事ですよ」

 その発言にイロナは困惑した。「無事? わたしが到着するまでに、一週間かかってしまったわけですが」

「ありがたいことです。これほど早く駆けつけてくださるとは。次の満月までに間に合うか不安でしたが、これでひと安心です。まだ三週間も猶予がありますから」

 最初に人狼が現れた翌日には、この手の間違った認識は否応なく正されるものだ。いつもなら、イロナが懇切丁寧に訂正する必要はない。しかしどうやら、この村はいささか事情が異なるらしい。

「ヨーシュカ神父……いいですか、人狼が満月の夜に変身して暴れるというのは誤解です」

「そうなのですか?」

「満月が覚醒のきっかけにはなります。そのため最初の犠牲者は、満月の夜に集中しがちです。ですが、満月を見なければ変身できないわけではないのです。そもそも、なぜ人狼にとって銀が弱点かごぞんじですか?」

「それは……銀が神聖な金属だからでは?」

「そのとおり。ただし、異教的な意味での神聖さですが。古代ギリシャ・ローマにおいて銀とは、アルテミスやディアナ、つまり月の女神を象徴するのですよ。人狼にとって弱点は銀そのものではなく、月光なのです」

 満月が人狼に力を与えていると思われがちだが、実際にはむしろ逆だ。青白い光に包まれた穏やかな月夜も、人狼からすれば炎天下の砂漠も同然。降り注ぐ光は肌を、呼吸する空気は肺を焼く。あの分厚い毛皮は、月光から皮膚を保護しているのだ。しかし陽射しは防げても、暑さでのどが渇くことに変わりはない。血で潤したくなるのも当然だろう。

 したがって人狼は満月の夜が一番弱いし、血を求めてなりふりかまわなくなりがちなので与しやすい。それが月の欠けるごとに余裕を取り戻し、捕食者として狡猾に獲物を狩りたてるようになる。この村の規模なら、新月を待たずに壊滅してもおかしくない。

 にもかかわらず初日から一週間、何の被害も出ていないとは。どうりで村人が落ち着いていたわけだ。普通なら絶対ありえない。となると――いや、判断材料がそろっていない段階で憶測を重ねても、時間のムダだ。イロナは師の教えを思い出す。

 考えるな、感じろ。

 よけいなことは考えないで、感じるままに動けばいい。

「とにかく、一刻も早く人狼をいぶり出す必要があります。まずはラダが殺された現場へ案内していただけますか」

「はい。教会のすぐ近所ですよ。付いてきてください」

「あ、ちょっとお待ちを」イロナは歩き出そうとするヨーシュカ神父を引き留め、「背が高いですね。少しかがんでいただけますか?」

 神父は首をかしげつつ、「こうですか――」

 油断した神父の不意を突き、イロナは半開きの唇にキスをした。青色の舌を強引にねじ込んで絡め、ムリヤリ唾液を流し込む。たっぷり二十秒くらいかけて、舌で口内の粘膜を蹂躙した。

 ようやく解放された神父は、腰を抜かして尻もちをついた。キスをしているあいだ上手く呼吸できなかったのか、顔を紅潮させてあえいでいる。

「な、何なんですかぁ」

「落ち着いてください。生娘じゃあるまいし。女は知らなくても、神学校でじゅうぶん経験がおありでしょう?」

「わっ、わた、私はそのような、あんな連中とはッ」

「それは失礼」イロナは狼狽する神父を見下ろし、「ふむ。どうやらシロのようですね」

「シロ……? もしや、私を人狼とお疑いに?」

「当然です。たとえ司教だろうと枢機卿だろうと、男である以上嫌疑をまぬがれません。こうして直接確かめないかぎりは」

 粘膜を通して、イロナの体内に蓄積された銀を吸収させた。もしもヨーシュカ神父が人狼だったなら、今ごろ血反吐を吐いて息絶えていただろう。少々手荒だが、この方法が一番確実で手っ取り早い。

 この村で捜査するあいだ、神父には何かと協力してもらわねばならない。背中から襲われないためにも、真っ先に懸念を払拭しておく必要があった。

「いつまで座っているのです? ほら、早く立って。さっさとラダの家へ案内してください。一週間何もなかったからといって、今晩も人狼がおとなしくてくれるとはかぎらないのですよ」

「……少々お待ちいただいても?」神父は前かがみになって言った。

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