第一章

 コリンダはイヌバラを探して、森をさまよっていた。だって姉はイヌバラの花が好きだったから。大人たちには危ないから一人で出歩くなと言われたけれど、やっぱり好きな花があったほうが、姉もうれしいと思うのだ。

 それに今宵は満月ではないし、そもそもまだ昼間だ。だからきっと大丈夫。大丈夫なはずだ。プリコリッチは現れない。コリンダは自分に強く言い聞かせる。

 むしろ問題があるとすれば、今がイヌバラの咲く季節ではないということだ。季節外れの花がひとつくらいあるだろうと期待していたけれど、いっこうに見つからない。

「どうしよう。早くしないと暗くなっちゃう」

 日が暮れると危ない。足もとが見えにくくなって転びやすいし、道にも迷いやすくなる。それに、狼も出るかもしれない。村長がよく言っている――トランシルヴァニアは狼の国だ。だから夜に村の外を出歩いてはいかん。狼に食べられてしまうぞ。

 とはいえ、コリンダは狼などべつに怖くはない。村長がよく言っている――狼が目の前を横切るのは、幸運のしるしだ。ほかの大人たちも、家畜を食べる厄介者として毛嫌いこそすれ、本気で狼を怖れている様子はない。単に幼い子供たちを怖がらせて、言うことを聞かせたいだけだ。コリンダはもうそんな子供ではない。今年で十才になるのだから。ほとんど大人と言っても過言ではない。

 そう、本当に怖いのは狼ではない。大人も子供もそろって怖れているものは、ほかにいくらでもある。

 例えば、森の谷間で乙女を待ち伏せるパヌッシュ。

 例えば、生まれたばかりの赤子を食らうストリゴイ。

 例えば、疫病を引き起こすドシュマ。

 例えば、深い水たまりに潜むウォドナ・ムズ。

 例えば、殺した人間を吸血鬼にしてしまうノスフェラトゥ。

 悪魔は怖くない。悪魔は契約に従うので、こちらが手順を間違えないかぎり問題ない。大人たちはよく、悪魔に家畜や畑を守らせようと、十字路に円を描いて召喚の儀式をしている。

「……そうだわ! 悪魔にイヌバラを探させればいいのよ!」

 大人たちは子供に悪魔召喚をやらせてくれないが、儀式をしているところは何度も見ているので、ちゃんとやり方は知っている。コリンダはちょうど十字路のようになっている獣道を見つくろって、地面に円を描いた。その中心へ足を踏み入れる。悪魔への代価として銅貨が必要だが、あいにく今は持っていないので、代わりに綺麗なドングリをいくつか拾い、円の外に置いた。

「サタンよ、どうかあたしのしもべになって、季節外れのイヌバラを見つけ出してください」

 すると茂みの向こうから物音がして、一人の若い女が姿を現した。

 女は尼僧服を着ていた。コリンダは以前、巡礼の途中で村に立ち寄った修道女を見たことがある。しかし記憶のなかの修道女とは異なり、その灰色の尼僧服には下半身にスリットが入っており、長い脚がはしたなくあらわになっていた。年端のいかぬ子供でも感じ取れてしまうみだらさ。とても修道女とは思えない。いや、むしろ修道女であるはずがない。

「聞こえましたよお嬢さん。そういうお遊びはあまり感心しませんね」

「ホ、ホントに出た……」

「は?」

 儀式によって召喚された悪魔は人型ではなくヤギ、カラス、ヘビ、ヒキガエルなどの姿をしているという。しかしコリンダは、目の前に現れた修道女が悪魔だと確信した。

 なぜなら、肌の色が青かったからだ。

 血の気が引いて青ざめているとか、その程度の話ではない。まるで晴れた空のごとき、青に染まり切っている。普通の健康な人間ならありえない不気味さ。コリンダの背筋に怖気が走る。

 もっとも、べつにおびえる必要はない。魔法円の外へ出ないかぎり、悪魔は召喚者に危害を加えられないのだ。

「さぁサタンよ! 早くあたしの前にイヌバラを持ってきて!」

 イロナの命令に修道女は顔をしかめて、「わたしはサタンではありません」

「えっ?」

「言っておきますが、ルシフェルでもベルゼブブでもありませんよ。わたしはシスター・イロナ、あなたと同じ人間です」

「でも、その肌の色」

「あなたはミオリッツア村の子ですよね。ヨーシュカ神父から話を聞いていませんか? わたしは彼に呼ばれて来たのですが」

「じゃあ、神父さまが召喚した悪魔ってこと?」

「ですから、悪魔ではないと言ったでしょう」

「だったらさあ、悪魔じゃないって証拠見せてよ。じゃなきゃ信じないわ」

「やれやれ、これだからルーマニア人のどん百姓は……」イロナと名乗った修道女は、深々とため息をついた。「しかし、悪魔ではない証拠、ですか……」

 イロナは頭陀袋から一本の小瓶を取り出した。わずかに黄色がかった、透明な液体で満たされている。

「これは聖銀水といって、かの錬金術師パラケルススが発明した霊薬です」

「パラケルスス」

「高度な錬金術によって、聖水に純銀を溶かしこんだものです。この薬を飲んだ人間は、副作用でなぜか肌が青くなってしまうのです。このわたしのように」

「えー、ウソだぁ」

「ええ、疑うなら試してごらんなさい。あなたが飲んで実際青い肌になれば、すなわちわたしも人間ということになります。というわけで、さあ遠慮なく。どうぞグイッと」

「イヤよ」コリンダはあとずさった。「それがホントだったらたいへんじゃない。おねえさんみたいなぶきみな姿になりたくないもの」

「不気味」イロナは涙ぐみつつも勝ち誇った笑みで、「では、この薬がホンモノだと認めるのですね。ということは、同時にわたしが悪魔ではないことも認めることになりますよ」

 コリンダは首を横に振った。「その結論はそうろうだわ」

「早漏ではなく早計です」

「その結論は早計だわ。もしそれがホントにパラケルススが造った薬で、人間の肌を青くしちゃうとしても、だからってあなたの肌もその薬のせいとはかぎらないじゃない」

「おや、賢い?」

「だいたいパラケルススって悪魔つかいだったんでしょ? おねえさんがその悪魔なんじゃない? アゾット剣に封印されてたってヤツ」

「なぜ農民の娘がムダにパラケルススの知識を……」

「このあいだ神父さまが教えてくれたの。そういえば、聖銀水とかって薬の話もしてた気がする」

「その話題になったきっかけを憶えていませんか?」

 コリンダは肩をすくめて、「さっぱり思い出せないわ」

 イロナはがっくりと肩を落として、「……わかりました。降参です。負けを認めます。あなたの言うとおり、わたしはヨーシュカ神父に召喚された悪魔です。以前はパラケルススによって、アゾット剣に封じられていました」

「やっぱり!」

「どうやらあなたが同時に召喚の儀式をしたせいで、誤ってこちらへ出てしまったようです。よろしければ村まで案内していただけませんか?」

「いいわよ」コリンダは不敵な笑みを浮かべ、「でもその代わり、おねがいがあるの」

「条件?」

「あたしといっしょにイヌバラを探して」

「イヌバラ? 今は季節ではありませんよ」

「もう、そんなのわかってるわ。だから探してるんじゃない」

「なるほど。一理あります。とはいえ、悪魔にもできることとできないことが」

「えー? 悪魔ならなんでもできるはずでしょ? できないなんてウソよ。できないんだったらニセモノだわ。このニセ悪魔。あたしをだましたのね」

 イロナは口角を引きつらせた。「なぜそこまでイヌバラを? ほかの花ではダメなのですか?」

「だって……お姉ちゃんは、イヌバラが好きだったから……」

「だった?」

「死んじゃった。だからお墓にそなえるの。……でも、ホントはどっかで生きてるのかも。だってあたし、死んだお姉ちゃんを見てないもの。大人たちが見ちゃいけないって。あの棺桶が、からっぽだったらいいのに」

「……あなたのお姉さんは、殺されたのですね?」

 その指摘され、コリンダは息を呑んだ。「どうして知ってるの?」

「それは――」

 するとそこへ、何者かが近づいてくる足音が聞こえた。

「おぉーいッ、コリンダ! ようやく見つけたぞこのバカタレ」

 茂みの向こうから現れた若い農夫を見て、コリンダは安堵のため息をこぼした。「なんだ、アドリアンおじさんか。もう、おどかさないでよ」

「なんだじゃねえ。まったく、一人で森に入るなってあれほど――うひィッ!」

 農夫はイロナの姿を一目見るなり、腰を抜かして尻もちをついてしまった。「あ、ああ、悪魔ぁ」

 コリンダは得意げに、「違うよおじさん。ニセ悪魔だよ」

「ニ、ニセ?」

「ニセではありません」イロナは憮然として、「いえ、悪魔でもありませんが。わたしは聖フーベルトゥス女子修道会ヘルマンシュタット女子修道院所属、シスター・イロナです。ヨーシュカ神父の要請により参上いたしました」

「――こ、こりゃとんだ失礼をッ!」農夫は慌てた様子で居住まいを正し、「神父様から話はうかがってまさァ。……しっかし、肌が青いとは聞いちゃいたが、まさかこんなに真っ青だとは――あっ、いや。その……」

「お気になさらず。慣れていますから」

「さようでごぜえますか……。それじゃさっそく、村までご案内しやす」

「ねえねえ、ニセ悪魔さん」

「おいコリンダ、失礼だろがい!」

「かまいませんよ」イロナは折檻しようとするアドリアンを制止して、「何でしょうコリンダ?」

「あのね? シスターが悪魔じゃないなら、神父さまに呼ばれて来たのはなんで?」

「悪魔よりも怖ろしいモノから、あなたたちの村を救うためです」

 森の谷間で乙女を待ち伏せるパヌッシュ。

 生まれたばかりの赤子を食らうストリゴイ。

 疫病を引き起こすドシュマ。

 深い水たまりに潜むウォドナ・ムズ。

 殺した人間を吸血鬼にしてしまうノスフェラトゥ。

 それらはしょせん異教の名残り、無知蒙昧な迷信にすぎない。ただ語られるだけの存在であり、現実に害をおよぼすことはない。

 悪魔は実在する。なぜなら聖書の記述は事実であるべきなのだから。だが悪魔は契約に従うし、そもそも人間が信仰心で誘惑をはねのければいい。

 ――ああ、しかし、だがしかし、それでも怪物はいるのだ。人に仇なす怪物は。

 狼のように人を殺し、狼のように人を食らうケダモノが。それでいて、狼とは似て非なるバケモノが。

 プリコリッチ、またの名をライカンスロープ、またの名をルー・ガルー、またの名を――

「わたしは、人狼ウェアウルフを狩りに来ました」

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