ep.2『おうち時間ツーリズム』③



 翌週、僕はまた仕事部屋でパソコンと見つめ合っていた。


 好きでこんな無機物と見つめ合っているのではない。

 ただ、ひたすら数字を入力していくだけの単純作業にあきてしまい、それでもなんとか両手の指を緩慢に動かしていたのだが、とうとう人差し指一本も動かす気力が尽きてしまったのだ。

 ここは目の前の文明の利器に、気分転換になる軽妙なトークのひとつでも期待したいところだが、僕のパソコンにそんな気の利いた機能はついていない。


 休憩するか――そうと決まれば行動は早い。

 僕は椅子をくるりと回転させると、足を伸ばして床に飛び降りた勢いのまま、仕事部屋の扉を開け放った。



 仕事部屋の扉を開けると、そこはパリだった。


 僕は後ろ手に扉を閉めながら、目の前に開けたシャンゼリゼ通りを見渡した。


 なぜ凱旋門もないのにここがシャンゼリゼ通りとわかったか。

 それは、リビングの四方がレースのカーテンで囲まれ、何となくおしゃれなカフェっぽくしてあるからでも、観葉植物の鉢をがんばって並べて並木道っぽくしてあるからでもない。

 どこからともなく流れてくるBGMが「オー、シャンゼリゼ(日本語バージョン)」であるからだ。

 これほどわかりやすいことがあろうか、いやない。


 前回の京都に比べて、ややクオリティが下がっていることは否めないが、どうやら僕の奥さんは、海を越え、国境を越える魔法まで使えるようになったらしい。


「ボンジュール」


 だいぶ発音の怪しいフランス語のあいさつに振り向くと、どこから持ち出してきたのか、カフェテーブルとおそろいの椅子がセッティングされていて、そこで何かで見たような装いの奥さんが優雅に手を振っていた。

 白のブラウスの襟にスカーフを結び、フレアスカートをひるがえして立ち上がると、奥さんは女優のように微笑んでみせながら言う。


「どうも、パリジェンヌです」


 自らパリジェンヌと名乗る女性に、僕は生まれて初めて出会った。


「おにいさん、ひとり? よかったらここで一緒にお茶しません?」


 なんと、パリジェンヌにナンパされてしまった。


 女性に誘われて断るのも野暮である。

 僕は誘われるままに、パリジェンヌの向かいの席に腰を下ろした。

 準備のいいことで、テーブルの上にはすでに、二人分のコーヒーとお茶菓子が用意されている。


「パリジェンヌさんは日本語お上手ですね」

「ええ、今はグローバルな時代ですもの」


 なるほど、パリジェンヌは時代の最先端を行くというわけだ。


 しかし、彼女の服装、何か既視感が――何とか思い出そうと頭をひねっていると、彼女は言った。


「お茶のあとは観光に行きませんこと? 

スクーターで二人乗りして、街を走るの気持ちいいのよ」


 それでようやくピンときた。

 目の前の彼女の服は、あの名作映画に登場する、女優オードリー・ヘップバーンのあの衣装なのだ。

 なるほど、よく見繕ってきたものだ。


 言われてみると確かにそっくりなのだが。

 彼女にもよく似合っているのだが――。


 パリジェンヌよ、落ち着いてよく思い出してほしい。

 あの映画の舞台はタイトルにある通り「ローマ」であって、「パリ」ではないのだ――。


 これは彼女のお茶目なうっかりということにしておきたい。

 決して彼女がお馬鹿なのではない。たぶん。


 僕はお茶だけごちそうになって、二人での観光は丁重にお断りした。

 まかり間違って「真実の口」に手を突っ込まなければならなくなったら、いいリアクションができる自信がなかったからだ。

 役者ではない自分のアドリブ力を、過大評価はできない。


 しかしながら、パリジェンヌとウィットに富んだ知的な会話が楽しめたおかげで、その後の作業も気持ちよく進めることができたのだった。




 

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