ep.1『第五の馬 あるいはカウントダウン10』②
「あと九秒だって」
次の日の朝、テレビで、昨日どこかの国で起こった水害についてのニュースを読み上げているおじさんキャスターの上に表示された字幕を、僕はキッチンのママに聞こえるように読み上げた。
香ばしく魚が焼ける音がする。
ただよってくるしょっぱい匂いで、今日の朝ごはんは和食だとわかった。
「ふうん……昨日の人類は規則的だったってわけね」
気のない返事と一緒に、ママがお盆にのせて朝ごはんを運んでくる。
白いごはん、こんがり焼いた塩鮭、玉子焼き、わかめと豆腐のお味噌汁。
ママがテーブルに二人分の朝食を並べていく横で、僕は急須から二つの湯飲みにお茶を注いでいく。
湯飲みをそれぞれの席に並べながら、僕は何気ない調子で聞いてみた。
「パパは次、いつ帰ってくるの?」
「さあ……月末に帰宅日があるから、そのときには帰ってこられるでしょうけど」
ママがリビングの壁に目を向けたのにつられて、僕もそこにかかったカレンダーを見る。
毎月最後の日にちのところ、ママが書き込んだピンクの花丸が、パパが帰ってくる日の目印だった。
「すぐお仕事に戻っちゃう?」
僕が聞くのに、ママは小さく溜息をついた。
ママの手が僕の方に伸びてくる。
きれいに爪を整えた指先で、ママは僕の前髪を左右にかき分けた。
長くなってきた前髪がちょっと邪魔になってきていたところだった。
そろそろ切ってもらわないと。
関係ないことを考えてしまった僕の顔をのぞき込んで、ママはうっすらと微笑んでみせながら言う。
「何日か、ゆっくりしてくれたらいいんだけどね。
でも、パパだけお休みするわけにはいかないんでしょ。
みんな、カウントダウンが進まないようにがんばってるんだから」
「そうだね」
そうして、僕とママはそろって席に着いた。
僕の向かい、ママの隣の椅子はずっとからっぽだ。
先月の帰宅日のときは、お昼ごはんを一緒に食べて、でも夕ごはんが終わるとすぐにパパは仕事に戻って行ってしまった。
政府委託の大変な仕事をしているんだから仕方ない。
僕も赤ちゃんじゃないんだから、そんなことくらいよーくわかっている。
クラスメイトの中には、自分のパパの顔も思い出せない、パパに一度も会ったことがないって子もいる。
僕は月に一度だけだけど、パパと一緒に家で過ごせる。
たぶん、これは他の子より恵まれてるってことだ。
そう思いながら、僕は箸を取ってできたての朝ごはんをほおばる。
塩鮭の一口が思ったよりもしょっぱくて、顔をしかめてしまったところにママが朗らかに言う。
「大丈夫。
カウントダウンがもう絶対進まないってなったら、パパもたっぷりお休み取れるから。
パパが帰ってきたら、またたくさんお話聞いてもらうんでしょ?」
「うん、学校でね、ゲスト講師の先生がしてくれる話がおもしろいんだ」
週に一度、学校の外から招待された先生が、講義をしてくれる時間がある。
ただ話を聞かされるだけで退屈だ、というクラスメイトもいるけれど、普段の授業では聞けない、科学や芸術、哲学の話が聞けるので、僕はこの特別講義が好きだった。
「家で、家族の人にも教えてあげましょうって言われてるし」
「先週はどんな話?」
「お経の話」
「おきょう?」
「先週は仏教のお坊さんが来て、お経の話をしてくれたよ」
「へええ……お坊さんまで先生に来るの?
この前は神父さんが来たって言ってなかったっけ?」
「この前来たのは牧師さんだよ」
「同じじゃないの?」
首をかしげて見せるママに向かって、僕は溜息をついて見せた。
特別講義で聞いてきた話をママにしてみても、いつもいまいち反応が悪い。
僕がおもしろいと思ったことを一生懸命話してみても、うなずいているだけで、わかっているのかいないのかはっきりしない。
僕の話し方が悪いのかもしれないけど、一度話したこともまるで覚えていてくれていないから、僕としても話しがいがないというものだ(ちなみに、神父さんはカトリックの聖職者、牧師さんはプロテスタントの先生だという話もママにはした)。
パパならそんなことない。
ちゃんと話は聞いてくれるし、一度話したことは忘れないし、僕の話に対してパパの意見も聞かせてくれる。
早くパパが帰ってくればいいのに。
そう思ってみても仕方ないことなんだけど。
「……お経の話なんて難しそうね」
「難しくないよ、聞いたのはお経に出てくる馬の話」
「馬? いいわね、ママ、動物の話は好きよ」
そう言って、ママはちょっと身を乗り出してきた。
「お経に出てくるいい馬と悪い馬の話だよ。
馬に乗る騎手がね、走らせるときに鞭を使うでしょう?
騎手が鞭を振り上げた、その影を見て走り出すのが一番いい馬、振り下ろした鞭が毛に当たって走り出すのが二番目にいい馬、鞭が肉に当たってから反応するのが三番目、鞭が当たったのが骨にまで響いてから走り出すのが一番悪い馬なんだって」
「あんまり鞭でたたくのは、ママ、よくないと思うけど。
お坊さんってそんなに馬をたたくものなの?」
「これはたとえ話なんだよ。
ちゃんとお経に書いてあるお話なんだって。
えーっと……『
「ぞーあごんきょー」
ママは乗り出していた体を引っ込める。
うん、こういう反応は僕の予想通りだ。
僕は足元に置いておいた通学バッグから、授業用のタブレットを取り出す。
「
世の中の一大事に対する鈍感さについて、馬でたとえている話なんだ」
「ふうん?」
僕はタブレットの画面に表示させた、特別講義のテキストを読み直しながらしゃべる。
「この馬は僕たちのことなんだって、お坊さんは言ってたよ。
人間のことを馬にたとえているんだって」
「へえぇ?」
「一大事のあることを、その人がどう感じてどう受け取るのか。
たとえば、ニュースで大災害の起こったことを知る、身近な人が事故に遭う、自分自身が病気にかかって死にそうな目に遭う……自分が大変な目に遭ってようやく一大事のあることに気がつくのが、たとえ話の四番目の馬のことなんだってさ。
たいていの人たちは、そういう風に人生を鈍感なままで過ごしているんだって」
「そういうものかしら……ママは自分で、そんなに鈍感な方ではないと思うけど?」
「自分で自分のことを、鈍感だと自覚している人は少ないんだよ」
「鈍感っていうのはパパみたいな人のことをいうと思うけど。
パパって昔から、世間の流行にも家の中の変化にもあんまり気がつかない人じゃない?」
ママの意見には僕は一応、ノーコメントとしておく。
それをいうなら、僕もあんまりママの言う流行や変化はよくわからない方だし。
テーブルクロスや飾ってある花瓶が変わっていても、言われるまで気づけなかったりする。
それでときどき、あなたとパパは似た者親子ね、とちょっと怒ったような顔でママに言われてしまうのだ。
ママは切り分けた玉子焼きをぱくぱくと口に放り込みながら、
「それに、ちょっと鈍感なくらいが普通なんじゃないの。
世界中で大変なことはいくらでも起こっているもの。
毎日嫌ってほどニュースで見るでしょ。
そのいちいちに過敏に反応してたら、いくら何でもメンタルが保たなくなっちゃう」
それはそうだと思う。
自然災害が起こる、戦争が起こる、伝染病が流行る。
そうして、世界中のあちらこちらで毎日人が死んでいく。
ニュースはいちいち、今日は誰が亡くなりました、とは言わない。
死んだ人は、数字としてしか知らされない。
そうやって僕たちは、心臓が痛くなるような出来事をやり過ごしているように思う。
辛いこと、苦しいことを、真っ正面から受け止めることなんて、超合金でできたハートを持っていないと難しい。
その通りだと、思うんだけれど。
それでいいのか、ともちょっとばっかし思えてくるときもある。
僕はタブレットから視線だけを持ち上げると、お味噌汁をすすっているママを見つめて、馬の続きを話す。
「お坊さんはね、お経には書かれていない、五番目の馬がいるんだって言ってたよ」
「五番目の馬?」
「鞭が骨を折っても驚かない馬」
僕が言うのに、ママはお茶碗から口を離して、ふっと吹き出して笑った。
「なあに、それ。
自分の骨が折れるまでたたかれて、気づかないなんてことある?」
「そういう人が、実は世の中には一番多いかもしれないって」
「さすがにそれは馬鹿にしすぎじゃない?」
ママはそれこそ馬鹿にしたような顔つきで言う。
それに反論しようとした僕をさえぎるように、手の中のタブレットからアラームが鳴った。
「あ、もう出かける支度しないと」
「えっ、もうそんな時間?」
ママは目を丸くして、自分の腕時計を確認してから、やばい、と口の中でつぶやいた。
「おしゃべりしすぎて気づかなかったわ」
慌ててお茶を飲み干したママが、ふと考え込むような顔をしてつぶやく。
「確かに、これはちょっと鈍感かもしれないわね」
お坊さんが話してくれたのは、たぶん少し意味が違う。
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