29:猫の失敗

 何故自分のためにそこまでするのかと尋ねると、伯爵は「大人が困っている子どもを助けるのに理由が必要か?」と問い返した。


 リュオンは信じられない思いだったという。

 世の中にはこんな大人がいるのかと感動し、世界がひっくり返ったような気分だった、と。


 それからリュオンは伯爵夫妻の支援を受けて魔法学園に通い、たった一年で難解な古文書を読み解き、ユリウス様の猫化の解除に成功した。


 首席で魔法学園を卒業したリュオンには無限の可能性があったけれど、彼は数多の誘いを断って伯爵夫妻に仕えることを選んだ。


 それから数年が経って彼は『大魔導師』となり、貴族の仲間入りを果たした。

 ロドリーでは『大魔導師』になると家名を持つことが許され、一代限りの貴族となることができるのだ。


 リュオンはリュオン・クルーゼ男爵となり、それからも変わらずラスファルの街を守り続けている。


 エンドリーネ伯爵夫妻はおれに新しい人生を与えてくれた恩人だし、何よりここは春の陽だまりみたいに居心地の良い場所だから。


 リュオンは話をそう締めくくった。


 何も言えずに彼を見つめていると、長い話を終えて疲れたらしく、リュオンはそのうち目を閉じて寝息を立て始めた。


 だから私はそっと部屋を抜け出したのだ。


「…………」

 黙々と食事を終えた私は、盆に空になった食器を乗せて厨房へ行った。


「後でまとめて洗うので、流し場に置いといていいですよ」

「ありがとうございます」

 食器を磨いていたネクターさんにお礼を言ってから、私は厨房を出た。


 さて、これからどうしよう?


 リュオンが管理している温室に行って、彼の代わりにラスファルセージの手入れをするか。


 それともまたリュオンのところに行き、彼が起きるまで傍にいるか。


 ユリウス様やノエル様がいま何をしているのか見に行くか――


 厨房の扉の前で考えていると、大広間の階段のほうから物音が聞こえた。


「?」

 私は階段に向かい、目を見開いて立ち竦んだ。


 黒猫が――ユリウス様が階段の前で倒れている!!


「ユリウス様!?」

 私はユリウス様に駆け寄り、妙に温かいその身体を抱き上げた。


 ざっと見た限りでは外傷はない。

 でも、目に見えない内臓を痛めている可能性は否定できない。


 階段には赤いスカーフが落ちていた。

 察するに、階段を上る途中でスカーフを踏んづけてしまって落ちたのだろうか?


「ユリウス様!!」

 私は半泣きで黒猫の背中を叩いた。


「みっ!!」

 目を開けたユリウス様は私を見るなり猫らしく鳴いて、ぶわっと全身の毛を逆立てて尻尾を膨らませ、じたばたと暴れた。


 この反応を見る限り元気そうだ。

 恐らくは軽い脳震盪を起こしていたのだろう。


 ほっとして床に下ろすと、ユリウス様は壁際まで全力疾走し、身体を壁に押し付けた状態で前屈みになり、じーっと私を見上げた。


 あれほどまでに警戒心をむき出しにしているのは寝起きで私が超至近距離にいて驚いたからだろう。最近ではあそこまで過剰反応されることはない。


「すみません、触らせていただきますね。少しの間我慢してください」

 階段を上ってスカーフを取りに行き、黒猫の首にスカーフを巻くと、黒猫は人間の言葉で話し始めた。


「……すまない。庭に珍しい蝶がいて。夢中で追い掛け回しているうちに、植え込みに引っ掛かってスカーフが取れてしまった」

 どうやら身体が猫になると心まで引きずられて猫になってしまうものらしい。


「内密に巻き直してもらうべく、スカーフを咥えてノエルの部屋に行こうとしたんだが。階段の途中でスカーフを踏んづけてバランスを崩し、落ちてしまった」


 申し訳なさそうに――あるいは恥ずかしがっているのかもしれない――黒猫は頭を下げた。


「そうだったんですね。どこか痛いところはありませんか?」

「打ち付けた背中が痛い。この辺が」

 ユリウス様は身体を捻り、前足で背中の一点を指した。


「水で冷やしましょう。サロンで待っていてください」

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