30:黒猫とのお喋り(1)
サロンの長椅子の上にうずくまった黒猫の背中に濡れたハンカチを広げて被せると、黒猫はぴくっと耳を動かした。
「どうでしょう?」
一歩下がって具合を問う。
「問題ない。ひんやりしていて気持ち良い。夏の日差しを浴びながら庭を駆け回ったせいで、どうやら俺の身体は思った以上に熱を帯びていたようだ」
黒猫は完全に脱力してうつぶせになった。
「もしかしたら熱中症を起こしていたのかもしれませんね。体毛が黒いと熱を吸収しやすいですから。どうか体調には気をつけてください。ちゃんと水も飲んでくださいね」
長椅子の下には新鮮な水と食事も用意した。
「それでは、私はこれで。ノエル様を呼んできますね」
「待て、セラ」
一礼して退室しようとしたら、呼び止められた。
「はい?」
サロンのドアノブから手を離して振り返る。
「その……。ノエルに甘えてばかりもいられないからな。女性に慣れるための訓練相手になってくれないか」
「はい、もちろんです!」
「なら、二人で話をしよう。座れ」
ユリウス様は前足でぺしぺし隣を叩いた。
猫の仕草はいちいち可愛い。
「いいんですか?」
喜んで隣に座ると、ユリウス様は口を閉じ、
「やっぱりもう少し距離を置いてくれ。人一人分の空間の確保を要求する」
「はい」
私は少し離れた場所に座り直した。
「ええと……」
緊張してしまって話題が思いつかないらしく、長い沈黙の果てにユリウス様は言った。
「元気か?」
「はい。おかげさまで」
笑いそうになるのを堪えながら答える。
「そうか。俺も元気だ。お互い元気で何よりだな。いや、そうではなくて……。えーと……リュオンの具合はどうだった?」
「寝込んでいますから、あまり良いとは言えませんね。でも、苦しくても冗談を言う余裕はあったみたいなので、そこまで深刻にならなくても大丈夫だと思います。数日もあれば熱は下がるはずです。どんなに遅くとも三日後には魔法を使えるようになると思いますよ。もう少しの辛抱です」
「……そうか。あいつにはいつも迷惑をかけて申し訳ないな」
ユリウス様の三角の耳が垂れた。
「ユリウス様、リュオンは迷惑だとは思ってないと思います」
私がそう言うと、ユリウス様は紫の瞳をこちらに向けた。
「リュオンはユリウス様のことを大事な友人だと言っていました。友人の定義は人それぞれだと思いますが、私にとって友人とは『一緒にいると楽しくて、その人のために何かしたいと思える相手』です。その人といると私が楽しいんです。その人がいなくなると私が悲しいんです。だから、私は私のために、友人が困っていたら全力で助けます。好きな人にはいつだって幸せでいて欲しいですから」
ユリウス様は黙っている。
「多分、リュオンもそうだと思います。猫になるほどショックを受けたユリウス様を心配こそすれ、元に戻す手間を迷惑だなんて思っていないはずです。自分が大事な友人の力になれることを誇りに思っているはずです。ユリウス様は私よりずっとリュオンとの付き合いが長いでしょう? リュオンがどんな人かはユリウス様のほうがわかっておられるはずです。思い出してみてください。いままで一度でもリュオンが迷惑だと言ったことがありますか? そんな態度を見せたことがありますか?」
私が屋敷に来た初日、リュオンはユリウス様が猫になることをわかっていながら、安らかな睡眠を優先してユリウス様に私の手を握らせ続けた。
リュオンは私を――他人を大切に撫でてくれるような、思いやりのある、優しい人だ。
そんな彼が、迷惑だなんて言うはずがない。
「…………。ないな」
「はい」
私が微笑むと、ユリウス様は目線を落とした。
「……だが、俺が猫になる度にあいつに手間をかけさせるのは事実だ。俺に魔法をかけた魔女ドロシーを見つけ出せれば良いんだが、ドロシーは長いこと行方知れずだ。父上がどれだけ手を尽くしてくださっても見つからないとなると、この国にはもういないのだろう。元より神出鬼没で有名な魔女だからな」
ドロシー・ユーグレース。倫理も道徳もまるで無視して、気に入った人間にはとびきりの幸福を、気に入らない人間にはとびきりの災厄をもたらすという魔女。
遠く離れたレアノールでも『誰が魔女の中で最強か?』という議論ではまず真っ先にその名が挙がっていた。
同じ『大魔導師』の称号を持つリュオンも、もし人々の間で語り継がれる嘘のような伝承が真実なら、もしドロシーと戦うことになったら勝てないだろうと言っていた。
「……ユリウス様は結婚式までは安定して人間でいられたんですよね?」
私が尋ねると、苦い記憶を思い出させてしまったらしく、ユリウス様は黙り込んだ。
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