31:黒猫とのお喋り(2)

「す、すみません。聞かないほうが良かったですね。忘れてください」


「……いや。セラが興味本位で聞いているわけではないのはわかっている。あれから三か月……もう四か月近く経つんだ。いい加減逃げてばかりいないで、現実に向き合わなければいけないのも、頭ではちゃんとわかっている。わかってはいるんだが……」

 ユリウス様は口をつぐんだ。


  頭でわかっていても、どうしても感情がついていかないのだろう。


 私も妹の結婚式では周りから嘲笑された。

 婚約者を奪われたことそれ自体より、周りの視線や陰口のほうが遥かに堪えた。


 自分が惨めな存在なのだと思い知らされ、世界中の人々からわらわれているような気がした。


 でも、私が味わった絶望よりもユリウス様の絶望は遥かに深い。


 ユリウス様とは知り合ってまだ半月程度。

 それでも彼の人となりくらいはわかる。


 政略結婚で、生まれる前から決まっていた婚約者とはいえ、ユリウス様はクロード王子のように浮気をするような人間ではない。


 それこそ一途に、真摯に、婚約者を愛したはずだ。


 ユリウス様は生涯を共に生きると決めた花嫁に、よりによって結婚式当日に逃げられた。


 名家同士の結婚だけあって、王都の教会には大勢の人間が詰めかけたという。


 いかにエンドリーネ伯爵家に力があろうとも人間の口を塞ぐことは出来ない。


 結婚式当日に花嫁が逃亡した話は瞬く間に広まり、ユリウス様は社交界の笑い者となった。


 ユリウス様が人の目を畏れて引きこもってしまうのも無理はない。


 逃亡した花嫁の実家からは後日莫大な慰謝料が支払われたそうだが、お金で傷ついたユリウス様の心が癒せるはずもなかった。


「……ユリウス様。焦らないでください。ユリウス様は愛した女性から最悪のタイミングで裏切られたんです。そう簡単に立ち直れるわけがないことくらい、みんなわかってます。焦れば焦るほどそれはユリウス様の心労ストレスになってしまいます。猫化を加速する悪循環です。だから、焦らず、ゆっくりいきましょう?」


 私は長椅子から下りてユリウス様の前に屈み、床の絨毯に膝をついて目線を合わせた。


「こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、私は誓約書にサインをする前に花嫁が逃げてくれて良かったと思っています。だって、婚約者であるユリウス様のお気持ちや、最高の結婚式にするために色々手配や準備をしてくださったであろう式場関係者や、ノエル様のようにわざわざ休暇を取って参列した人たちの迷惑も顧みず、結婚式当日に恋人と駆け落ちするような人ですよ? そんな不誠実な人と結婚しても、後々ユリウス様が苦労していたのは目に見えています。ですから、ここは前向きに考えましょう。結婚前に尻尾を出してくれて良かったと!」

 私は胸の前でぐっと拳を握ってみせた。


 予想外の言葉だったらしく、ユリウス様は紫色の目を丸くして私を見ている。

 私は手を下ろして微笑んだ。


「ユリウス様は女性が怖いのに、無条件で私を迎え入れてくださった優しい方です。結婚式では心無い人もいたとは思いますが、みんながみんな敵だとは思わないでください。婚約者がいたから遠慮していただけで、ユリウス様の魅力に気づいていた女性は絶対にいます。ユリウス様は優しくて、格好良くて、温かい心を持ったお方です。女性恐怖症を克服して、もう一度社交界に出れば、世の女性は放っておきませんよ。いつかきっと素敵な女性と巡り合えます」


「……。どうだろうな。結婚式当日に逃げられるまで、俺はエリシアをこの世で一番素敵な女性だと思っていたんだ。困ったことに、俺には見る目がないらしい」


 結婚式当日に逃げた花嫁の名前はエリシアといったのか。


 エンドリーネ伯爵夫妻も、ネクターさんやリュオンやノエル様も、その名前を口にするのも嫌みたいで教えてくれなかったから、いま初めて知った。


「あっ、そこはお任せください!」

 ユリウス様を励ますべく、私はことさら明るく言って、床に跪いたまま片手をあげた。


「私は書類上ではユリウス様の妹ですから。今度ユリウス様とお付き合いされる女性がお兄様に相応しい、素敵な女性でなければ、ノエル様とリュオンと結託して、どんな手を使ってでも別れさせます。剣の達人と魔法の達人です。どうですか、どんな女性も裸足で逃げ出す最強の布陣だと思いませんか?」


 悪戯っぽく笑ってみせたけれど、ユリウス様は耳をぴんと立てたまま何も言わなかった。


「……申し訳ございません。調子に乗りました。もう二度と言いません」

 恥じ入って頭を下げると、ユリウス様は頭を振った。


「違う、怒ってはいない。そうか。セラは俺の妹になるわけだからな。お兄様……なるほど。新鮮な響きだ」


 ユリウス様の黒い尻尾が一度だけ揺れた。


「でも、やっぱりお兄様とは呼ばないでくれ。不快なわけではないが、単純に気恥ずかしい」

「わかりました。引き続きユリウス様と呼ばせていただきます」

「いや、ユーリでいい。そう呼ぶことを許す」

 照れたのか、ユリウス様はそっぽ向いた。


「ありがとうございます。それではいまからユーリ様と呼ばせていただきますね」

 私は満面の笑みを浮かべてから、ユリウス様の爪を見た。


「ところでユーリ様。さっきから思っていたんですけれど、爪が長いですね。爪が長いせいでスカーフが引っ掛かって階段から落ちてしまったのでしょう。この家に猫用の爪切りはありますか? なければ私が買いに――」


「やめろ、一人で出歩くな。セラを一人で出かけさせて万が一のことがあれば、俺がリュオンに殺される」

 ユリウス様は身体を起こしてまで言った。


「それは大げさですよ。買い物くらい一人で行けま……いえ、わかりました」

 射抜くような鋭い視線を受けては引き下がるしかなかった。


「ノエル様に同行をお願いすることにします。……ふふ」

 私は思わず笑っていた。


「何故笑う?」

「いえ。こうやって誰かに心配していただけるのはありがたくて、嬉しいことだなあと思いまして。そうだ、ユーリ様。リュオンが元気になったら、みんなで街へ出かけませんか?」

「……街……」

 ユリウス様は俯き、恐ろしい怪物の名前でも呟くような言い方をした。


「あっ、いえ。街に出かけるのが難しいなら、まずは丘の周りを歩くだけでも良いんです。私と一緒に、少しずつ外に出る訓練をしましょう? 大丈夫です。ユーリ様の傍にはノエル様やリュオンがいます。みんなあなたの味方ですよ」


「……セラもだろう?」

 顔を上げてユリウス様は私を見つめた。


「はい、もちろんです! 有事の際にはあまり頼りはならないかもしれませんが、その分、精神面では全力でユーリ様を支える所存です!」

 私は再び拳を握って大きく頷いた。

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