32:ねえ、星より月より綺麗なものを見たんだ(1)

   ◆   ◆   ◆


 ――雪が降りそうなほど寒い夜だったことを覚えている。


 背中を預けた壁も地面も氷のように冷たかったけれど、深刻な栄養不足に陥った身体にはもう動くだけの気力も体力も残っていなかった。


 意識が朦朧とする。

 遠からず自分は死ぬ。実感としてそれがわかる。


 でも、だからなんだというのか――


 貧相な子どもが一人死んだところで世界は何も変わらない。

 自分などいないほうがよほど世界はうまく綺麗に回るだろう。


 何しろ放火の罪を犯しておきながら、罪を償うこともせずに逃げた犯罪者なのだから。


 通りすがりの人間は路地裏に蹲っている自分を見なかったことにして歩いて行く。


 中には露骨に顔をしかめる人間もいたし、何が可笑しいのか指を指して笑う人間もいた。


 でも、みんないなくなった。


 暗い路地裏に、いまは一人だ。どうしようもなく、独りだ。


 あまりにも暗くて、寒くて、寂しかったからか。


 ふと、星が見たいと思った。


 ただ一つ、小さな星でもいい。夜空に輝く星が見たいと、そう思って――残された力を振り絞って首を動かし、空を見上げた。


 空は分厚い雲に覆われていて、見るべき価値があるものなど何もなかった。


 満天の星や月など実在しないかのような、ただ暗く、寂しいだけの夜空。


 出来損ないの笑みが零れた。


 ああ、全く、神様というやつはとことん意地が悪い。

 最期くらい、綺麗な景色を見せてくれたっていいのに――そこで意識が途切れた。


「…………×××××?」


 誰かの声で目を覚ました。


 しかし、相手が何を言っているのかわからない。

 その声の主は――少女らしき高い声は――自分の知らない外国語を喋っていた。


 苦労して重い瞼を持ち上げる。


 見知らぬ少女が自分の腕を掴んで何か言っていた。


 眉尻を下げ、酷く心配そうな、気遣うような表情でこちらを見ている。 


 路地裏の隅には外灯が立っていて、その少女は外灯が照らすギリギリの範囲にいた。


 ピンクローズの髪に白銀の《魔力環》が浮かんだ銀色の瞳――彼女も自分と同じ魔女。


 裕福な家の子どもらしく、彼女は上等な服の上に厚手のケープを羽織り、胸元に赤い宝石が象嵌された蝶のブローチをつけていた。


「××××? ×××××。×××?」

 なんだろう、何を言っているのか。さっぱりわからない。


「××××」

 彼女とは違う声が聞こえた。


 のろのろと視線を動かしてそちらを見れば、鏡映しのように彼女と良く似た少女が立っていた。


 違うのは髪質と目の色だけ。


 自分の手を掴んでいる少女は艶やかな直毛の銀目で、少し離れた場所に立つもう一人の少女は豊かに波打つ癖っ毛の青目。


 双子なのか顔立ちは非常によく似ていても、二人の性格はまるで違うようだった。


 銀目の少女はわかりやすく自分を心配しているが、青目の少女はわかりやすく自分を嫌悪している。


 悪臭に耐えられないといわんばかりに鼻をつまみ、立ち去ろうとした青目の少女を銀目の少女が跪いてまで引き留めた。


 銀目の少女に頼まれたらしく、青目の少女は嫌そうな顔をしながらも自分に向かって手を突き出し、魔法を使った。


 全身が淡い金色の光に包まれる。

 昼間、通行人に突き飛ばされて転んだ際にできた腕の傷が消えた。


 だが、それだけだ。自分は栄養失調で死にかけているのだから、治癒魔法をかけられたところで何の解決にもならない。


 それが治癒魔法を使うための条件だったのか、青目の少女は銀目の少女の胸元からブローチを毟り取ってどこかへと歩き出した。


 銀目の少女も彼女の後に続いていなくなるのだろう。


 そして、また自分は独りに還る。


 視界が暗くなっていく。

 意識を保っていられず、死神に誘われるまま目を閉じようとしたそのとき、彼女は予想外の行動を取った。


 服が汚れるのも構わず、自分を背負ったのだ。


 さすがにこれには驚いた。


 一体何のつもりかと困惑し、揺り起こされるように脳が覚醒した。


 名前も知らない少女はおれを背負って歩き出す。


 どこに連れて行く気なのか。

 おれを助けたところで何も良いことはないのに。


「×××××。××××××。×××××」

 意味不明な台詞の中で、彼女はある言葉を繰り返していた。


「××××。×××。××××、×××××」

 察するに、彼女は『大丈夫』と言っているようだった。


 大丈夫、きっと助ける。大丈夫、私がなんとかする。何も心配いらない。大丈夫――訳すとこんなところか。


 自分が彼女の立場だったなら、相手を安心させるために言うだろう言葉。


 自分と同い年くらいの子どもを背負って歩くのは相当に辛いはずだ。


 腕は痺れ、足腰は痛み、やがて重みに耐えられなくなるはずなのに、彼女は何度もおれを背負い直し、意地でも下ろそうとはしなかった。


「……なあ。もう下ろしていいよ」


 彼女の首筋に浮かぶ玉のような汗を見て、おれは声をかけた。

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