33:ねえ、星より月より綺麗なものを見たんだ(2)

「×××? ××××」

 彼女が振り返って何か言った。


 疲労困憊している証拠に、彼女の額には汗が滲み、おれの足を抱える細い腕は震えている。


 とうに限界を超えているのは見ればわかった。


「いや、だから、下ろせって。おれがお前みたいな金持ちの子どもに見えるか? おれは何も持ってない。親切にされても何も返せないんだよ。おれは犯罪者だ。優しくされる価値もない」


「××××!」

 背中から下りようと身じろぎしたら注意された。

 そしてまた少女はおれを背負い直す。大変そうに。震える腕で。


「…………」

 彼女の荒い呼吸音を聞いていると、これ以上の負担をかけるのは申し訳ないような気がしてきたので、おれは観念しておとなしくすることにした。


 元より暴れるだけの体力はもうない。

 さっき身じろぎしただけで精いっぱいだった。


「××××。××××」

 何を言われても理解は不能。

 ただ黙っていると、少女は苦しそうな呼吸の狭間で言った。


「セレスティア。セレスティア・ブランシュ」


 どうやらそれが彼女の名前らしい。

 家名を持っているということは、平民ではなく、どこかの貴族の令嬢。


 上品な身なりが示す通り、自分とはそもそも住む世界が違う人間だった。


 しかし、なんでまた、他国のお偉いお貴族様の御令嬢がこんなことをしているのか。


 おれを助けて彼女に何の得があるのか。


 全くわからず考え込んでいると、彼女はちらちらおれを見た。


「リュオン」

 何やら期待されているようだったので、仕方なく名乗る。


「リオン?」

 惜しい。微妙に違う。

 リオンのほうが覚えやすくて発音もしやすいと思うが、文句ならこの名前をつけた奴に言って欲しい。


「違う。リュオン。リュ・オ・ン」

「リ、リィオ、リュ。リュオン」

「そう」

 最後の発音は完璧だった。


「リュオン」

 大切そうにおれの名前を呟き、彼女はおれを背負って歩き続ける。


 彼女の背中で揺られながら、おれはもう一度空を見上げた。


 真っ暗な空には相変わらず月も星もないけれど。


 視線を地上に戻せば、汗だくの一人の少女が息を切らし、筋肉を痙攣させながら、必死でおれを背負っている。


 信じ難いことだが、もはや認めざるを得なかった。


 何の見返りも求めず、彼女はただ純粋におれを助けようとしている。


 ――多分、いまおれが見ている光景は、月よりも星よりも美しく、尊いもの。


 言葉も通用しない、どこから来たのかもわからない他国の少女を見ながら、おれはなんだか泣きそうになった。


 彼女の背中で彼女の体温を感じていると、悪意と否定ばかりのこの世界で、初めて自由に呼吸ができた。


 生きていることを許されたような気がした。


 やがて、おれを背負った彼女が辿り着いたのは王都の一角にある診療所。


 彼女はおれが治癒魔法でも治せない怪我を負っているか、あるいは重病人だと勘違いしたらしい。


 おれを背中から下ろした後、彼女は診療所にいた医者にまっすぐ身体を向けて、おれのことを頼むように深々と頭を下げた。


「×××」

 彼女は診療所の出入り口で立ち止まり、おれを振り返って何か言った。


 さようなら。多分そう言ったのだろう。


 おれはとっさに彼女の手を掴んだ。

 たとえ言葉が通じなくとも、これだけは伝えなければならなかった。


「ありがとう、セレスティア」


 名前を呼ぶと、彼女は驚いた顔をして。


 それから、嬉しそうに笑った。


「――――」

 花が開くような笑顔に心を奪われた。一瞬で虜になってしまった。


 ――いつか彼女の話す外国語を学んで会いに行こう。

 瞬間的にそう決めた。


 死んでも良いと思っていたのに、生きる意味と目的ができた。


 元気になったら出頭して犯した罪を償おう。


 そして、正々堂々と彼女に会って、おれがどれだけ救われたかを伝えるんだ――。





 目を開くと、美しく成長した彼女がおれの部屋にいた。


「リュオン。起きた?」


 椅子に座り、軽く上体を乗り出して、彼女は寝台に横たわるおれを覗き込んでいる。


 あれから八年が経つというのに、眉尻を下げ、心配そうにこちらを見るその表情はまるで変わっていなかった。


「喉は乾いてない? 水を飲む? 今日はネクターさんに教えてもらってリゾットを作ったのよ。食べられそうかしら? それとも、すりおろしたリンゴのほうがいい?」


 おれは寝台に横たわったまま、無言で彼女を手招きした。

 もっと近くに寄ってくれと仕草で伝える。


「?」

 不思議そうな顔をしながら彼女が上体を近づけてきたので、おれは両手を伸ばした。


 左腕に激痛が走るのも構わず彼女を捕まえ、胸に抱く。


「!!? なななな、何をするの!?」


 顔を真っ赤にして慌てふためく彼女は大変可愛らしい。ずっとこのまま抱きしめていたくなるほど。


 でもあまり調子に乗って怯えられたり警戒されるのも嫌なので解放するしかない。


 悪ふざけで済まされるのは数秒だけだ。残念なことに。


「――なあセラ。おれはこれから先、何があっても命をかけてセラを守ると誓うよ」


 それはとうの昔に心に決めた、誓いの言葉。


 自暴自棄になって人生を投げ出さずに済んだのは、他の誰でもなく、彼女のおかげだった。


 彼女のためなら何だってする。その覚悟でおれは王都へ行った。


 さすがに国軍でも手を焼く天災級の魔獣三頭と戦わされる羽目になるとは思わなかったが、それで彼女の身の安全が保障されたならば、全身に負った怪我も勲章だ。


「い、いきなり何なの。もしかして寝ぼけているの? 命をかけられても困るわ。生きてちょうだい」

 顔を赤らめ、混乱しながらもセラはそう言った。


「おれが死んだら嫌?」

「当たり前でしょう! 二度とそんなこと言わないで!」

 彼女は本気で怒ったようだった。


 しかしそれも嬉しい。恋とは人を馬鹿にするものだ。


 口移しでもいいよ。昨日そう言ったときは本当に冗談のつもりだった。


 でも彼女は至って真面目に検討してくれた。いまもろくに抵抗することなくおれの腕の中に閉じ込められている。


 おれをぶん殴ってでも逃げようとしないのは、少しは脈ありと思っていいのだろうか。


 彼女を解放するまであと三秒。

 あと三秒以内に、緩んだ頬を引き締めなければならない。

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