34:不安な朝

    ◆   ◆   ◆


 夏空の下、小鳥たちが元気に囀っている。

 私はサロンの長椅子に座ったユリウス様の後ろに立ち、少し屈んで彼の癖のある黒髪を櫛で梳いていた。


 この一か月間、サロンで彼の髪を梳るのは毎朝の習慣と化していた。


 理由は言わずもがな、女性に慣れてもらうためである。


 最初の頃はガチガチに緊張していて顔色も真っ青。


 苦手な女性が近くにいる恐怖と触られる恐怖でもはや声も上げられず、私が触れる度に猫になりかけるのを常時猫化解除魔法を発動したリュオンが防いでいた。


 猫化を解除する魔法は莫大な魔力を消費する。


 たとえリュオンでも絶え間なく猫化解除魔法を使うことなど不可能だったのだが、他人の魔力を増幅することができる私の存在によって不可能は可能になった。


 猫化解除魔法の連続使用可能時間は十分。

 十五分が限界で、それ以上使ったら多分脳が焼き切れて昏倒する、と物凄く怖いことを言われたため、十分は絶対厳守だ。


 とはいえ、最近は慣れてきたらしく、この三日間私が触れてもユリウス様は猫になっていない。


 向かいの長椅子に座るリュオンも猫化解除魔法は使わず、ただ見守っているだけだ。


「失礼しますね」

 私が直接頭に触れてもユリウス様は人間の姿を保っている。


 この分だと女性恐怖症の克服、引いては社交界復帰も近いのではないだろうか。

 私は微笑みながら丁寧にユリウス様の髪を梳き、やがて櫛を下ろした。


「はい、終わりました。お疲れ様です。今日も猫になりませんでしたね。順調に記録更新中です」

 ぱちぱち拍手する。


「大げさなような気もするが、ありがとう。どうやら『いまから女性に触られる』という心の準備を済ませていれば大丈夫になったようだ」


「そうだと良いんですが、単純に私に慣れただけなのかもしれません。他の女性が触っても大丈夫なのかどうか試してみたいですね。マルグリットにでも頼んでみましょうか」

 そんなことを話していると、玄関の扉がノックされる音が聞こえた。


 私はユリウス様に断って玄関に向かい、扉を開けた。

 外に立っていたのは私と同じお仕着せを着たマルグリットだった。


「あらマルグリット、おはよう」

 まるで話を聞いていたかのようなタイミングでの登場に驚きつつ、私は挨拶した。


「ええ、おはようセラ。ユリウス様とノエル様とリュオンさんはいるかしら。バートラム様がお呼びなの」


「わかったわ、三人を呼んでくるわね」

 お仕着せの裾を翻した私は一抹の不安を覚えた。


 この屋敷で働き始めて二か月近くになるが、バートラム様が朝から三人を呼ぶのは初めてのことだ。


 何だろう……悪いことでなければ良いのだけれど。


    ◆   ◆   ◆


 ユリウスたちと一緒に赴いた本館のサロンでは伯爵と伯爵夫人が座っていた。


 二人ともきちんと身なりを整えていて、茶色のドレスを着た伯爵夫人は顔に薄化粧を施している。


 シャンデリアが吊り下がったサロンでは大きな花瓶に色とりどりの花が活けられていて、鼻孔をふわりと花の香りがくすぐった。


 茶色と金の二色で構成された壁紙と調和する品の良い調度。

 壁に飾られているのは風景画と歌劇の一場面を模した絵。


 大きな窓からは雲が浮かぶ青空と美しく手入れされた庭が見えた。


「二人とも、おはよう」

「おはようございます、父上、母上」


 ユリウスたちが両親と挨拶を交わし、続いておれも挨拶した。

 既に人払いを済ませているらしく、広々としたサロンには伯爵夫妻の姿しかない。


「二人とも座りなさい。リュオンはその後ろよ」

「はい」

 指示通りにユリウスとノエルが向かいの長椅子に着席し、おれは長椅子の後ろに立つ。


 斜め後ろから見るユリウスの顔には緊張の色があった。

 朝から、それも三人ともが呼び出されるとなるとただ事ではない。

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