20:兄は嫌いですか
「嫌い」
しとしとと雨が降り始めた夕方。
わずかに靴と肩を濡らした状態で帰宅されたノエル様を玄関ホールで迎え、思い切ってユリウス様のことをどう思っているか尋ねると、彼は顔色一つ変えずに即答した。
「くだらない用件で呼び止めないでくれる? 疲れてるんだ。夕食はいつも通り部屋まで運んで」
私の返事も待たずにノエル様はそのまま歩いて大広間に向かった。
天井から糸でつられているかのようにぴんと伸びた背中はこちらを振り返らない。
すぐにノエル様の足音は聞こえなくなった。
軍人だからか、ノエル様はあまり足音を立てない。
驚いたことに、その気になれば彼は完全に気配と足音を殺せる。
「………………」
冷や汗など流しながら、ちらりと大広間のほうを見る。
ほんの少しだけ開かれたサロンの扉の隙間。
そこからやり取りを見ていた黒猫が室内へ引っ込んだ。
ああああああああ――!!
私は頭を抱えて遥かに高い天井を仰いだ。
「おやまあ。兄弟間の亀裂がより深くなってしまいましたねえ」
厨房の前に立ち、頭を下げてノエル様を出迎えたネクターさんが苦笑しながら私に近づいてきた。
「好きかどうかなんていまさら聞かずとも、お二人の関係が冷え切っているのは見ていればわかるでしょう。踏み込まず、そっとしておく。それが使用人たちの暗黙のルールでしたのに、どうしてまた草むらの中にいた蛇を棒で突っつくような真似をしたのです?」
「……どうにかお二人の関係を改善したくて……」
私は両手で顔を覆った。
「ではこんなところで立ち止まっている場合ではないでしょう。一度問題解決に取り組むと決めたのなら、中途半端に投げ出してはいけません。このままでは貴女はただいたずらにお二人の関係を悪化させただけです。嘆くのは全力で足搔いた後でも遅くはないですよ」
ネクターさんは私の肩を優しく叩いた。
「今日の夕食の支度は私一人でやります。セラはノエル様と腹を割って話してきなさい。セラも気づいているでしょう? ユリウス様は猫になってしまうという見た目にもわかりやすい問題を抱えていますが、ノエル様の抱えている問題のほうがより暗く、根が深いことに」
「……はい。行ってきます」
私は表情を引き締めて頷き、足を踏み出した。
「ノエル様。夕食まで少しお時間をいだたけませんか。話したいことがあるんです」
雨音が聞こえるほど静かな屋敷の三階廊下。
閉ざされたノエル様の部屋の扉に向かって私は呼びかけた。
「さっきぼくは疲れてるって言ったんだけど、聞こえなかった?」
扉の向こうから返事が返ってきた。
「いえ、聞こえました。でも、いますぐお話ししたいんです。どうしても」
数秒経って、内側から扉が開く。
「何の話がしたいの」
部屋着に着替えたノエル様は無感情に私を見つめた。
「ユリウス様のお話を――」
無言でノエル様が扉を閉めようとしたため、私はとっさに扉の端を掴んだ。
閉めようとする力と開けようとする力が同時にかかり、私たちの間で扉が震える。
「お忘れですかノエル様。私は侍女です。ノエル様の部屋の鍵も持っているんですよ。無駄な抵抗はお止めください」
私は全力で抗いながら、にこやかに告げた。
「職権乱用でしょう……」
呆れたように言ってノエル様は嘆息し、ドアノブから手を離した。
「わかった。入って」
「ありがとうございます!」
私は頭を下げてから入室した。
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