45:イノーラって本当に…
「『あ、そうだった。いたんだ』」
リュオンは壁から手を離してイノーラを振り返った。
その隙に私は逃げた。まだ心臓はうるさく、顔は発火しそうなほどに熱い。
「…………っ」
地面にうつ伏せに倒されたままのイノーラは屈辱に顔を真っ赤にしている。
常に場の中心にいなければ気が済まなかったイノーラにとって、完全に自分を忘却していたといわんばかりのリュオンの発言は許しがたいものだっただろう。
クロード王子はといえば、打ちひしがれた様子で壁に向かって立っていた。さきほどの言い争いで暴言を吐かれたのか、愛のない結婚がショックだったのか――原因は不明だが、とりあえず彼にはもう言葉を発する気力もないようだ。
「あのさあ……」
地面に膝をつき、イノーラを最小限の動きで効率よく押さえつけているノエル様の頬は引き攣っている。
人を働かせておいていい加減にしろよお前らとでも言いたげだ。
「ぼくもう帰って良い? なんか馬鹿馬鹿しくなってきたんだけど。主に誰かさんたちのせいで」
「すみませんでしたノエル様っ。どうか帰らないでください!」
「ごめんノエル。もうふざけないから。手を離していいよ。魔法で拘束する」
リュオンがそう言うや否や、イノーラの上に金色の魔法陣が出現した。
イノーラの両手と両足に金色のひものようなものが巻き付く。
ノエル様が手を離すと、金色のひもは二つの輪へと形状変化してイノーラの両手と両足を縛り上げた。
「『なにするのよ、放しなさいよ!!』」
「『それは無理。だってイノーラは犯罪者だろ? ココに聞いたよ。セラの逃亡により魔力が大幅に減衰し、《国守りの魔女》の称号をはく奪されそうになって魔力増幅アイテムを盗んだ。その罪で投獄されて、クロード王子に手助けされて逃げ出したってな』」
「『……待って。どうしてあんたがココと連絡を取ってるのよ。まさか、ココが近くにいるの?』」
さっとイノーラが青ざめた。
「『昨日ラスファルの酒場で会ったんだよ。イノーラのこと恨んでたぞ、彼女。イノーラが脱走なんてするから王の命令でこんな遠い国まで追いかけさせられる羽目になったって、酒を飲みながら愚痴ってた』」
「『……拘束を解きなさい! 早く!!』」
イノーラが暴れ出した。
「『お久しぶりです、イノーラ妃殿下』」
ココの静かな声が聞こえた。
イノーラがびくっと身体を震わせて暴れるのを止める。
右手を向けば、細道から眼鏡をかけたココと見知らぬ二人の騎士が歩いてくるところだった。
右頬に傷痕がある赤髪青目の大男がブラッドさんで、もう一人の金髪緑目の優男がエミリオさん。
彼らの身体的特徴はリュオンから聞いていた。
「『イノーラ妃殿下』」
地面にうつぶせに転がっているイノーラを見下ろして、ココは冷淡な声音で告げた。
「『私たちは妃殿下とクロード王子を連れ帰るようレアノール国王に命じられてここに居ます。国王は「生死を問わず」貴女たちを連れ帰れと私たちに命じられました。そこで妃殿下に選択肢を差し上げます。おとなしく私たちに同行するならそれでよし。抵抗するなら私は貴女の死体を国に持ち帰ることになるでしょう。どちらが良いですか?』」
ココは言いながらイノーラに向かって右手を突き出した。
さすがにリュオンには及ばないものの、かなりの速さで金色に輝く魔法陣が描かれていく。
この魔法陣は風を生み出す一級魔法だ。
直撃すれば人体など吹き飛ぶであろう威力の魔法陣を見て、イノーラの顔色はますます白くなった。
「『……わ、わかった。抵抗しない。約束するから、だから止めて』」
「『承知しました。一度だけ信じます』」
ココが魔法陣を消して手を下げ、リュオンが魔法の拘束を解く。
その瞬間、イノーラは脱兎の如くクロード王子の元に走り出した。
「『えええ!? 何でこっちに来るの!?』」
「『うるさいっ、仮にも夫なら妻の役に立て!! 私が逃げる時間を稼げっ!!』」
イノーラは情けない悲鳴を上げるクロード王子の背後に回り込み、夫をココに向かって思いっきり突き飛ばした。
「『ぎゃんっ!?』」
潰れた蛙のように倒れる夫をしり目に、イノーラは細道の先へ消えた。
即座にイノーラを追いかけてエミリオさんが駆けていく。
ブラッドさんは地面に伏して痙攣しているクロード王子を氷点下の目で眺めるばかりで、助け起こそうとはしなかった。
「………………」
路地裏を乾いた風が一つ吹き抜ける。
「……話には聞いてたけど、イノーラって本当に……うん。君の実の妹を悪く言うのは良くないよね。止めよう」
イノーラが消えた細道の方向を見て、何か言いかけたノエル様は私を気遣い、続く言葉を飲み込んでくれた。
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