07:ユリウス様の事情

「その人は誰?」

 ノエル様は私を見て怪訝そうな顔をした。


「初めまして。セラと申します」

 私は鞄を床に置いてスカートを摘み、恭しく一礼してみせた。


 なかなか上出来なカーテシーができたと思ったのだけれど、ノエル様は表情を動かすことなく水色の瞳をリュオンに向けて説明を求めた。


「今日からここで侍女として働くことになった。エンドリーネ伯爵夫妻の許可は得ている」

 ノエル様は唇を動かした。

 声が小さくて聞き取れなかったけれど、「余計なことを」と言ったようだ。


 実は私には読唇術の心得がある。

 これは淑女教育の一環として身に着けたのではなく、優秀な諜報員を主役にした本に一時期熱中していたイノーラに面白半分で覚えさせられたのだ。


 間違えると容赦なく鞭が飛んでくるため必死になった結果、わずかな唇の動きでも読み取れるようになった。


「……父上の許可が出ているなら文句は言えないけれど。少しでも兄さんを侮辱したら追い出すからね」

 ノエル様は刺すような目で私を見た。


 この館にネクター以外の使用人がいない理由がこれだ。

 三か月ほど前から引きこもり生活を始めたユリウス様を少しでも悪く言った者はノエル様が一人残らず追い出した。


「心得ております」

 私は軽く頭を下げた。


「ユリウス様にご挨拶したいのですが、いまどちらにおられますか?」

「サロンで本を読んでるよ」

 感情のない声でそう答えてノエル様は階段を上っていった。


「…………あまり歓迎されてはいなさそうね」

「事情が事情だからな……すまない」

「いいえ、わかっていたことだから大丈夫よ。これからノエル様に信頼していただけるように頑張るわ」

 そんなやり取りを挟んで、私たちはサロンへ向かった。


 大広間の右手にある一つの扉の前で止まり、リュオンが扉をノックする。


「ユーリ。今日から働く侍女を連れてきた。紹介したい」

 返事がない。


「ユーリ?」

 しばらく待っても、呼びかけてノックしても、反応なし。

 本に夢中になっているのだろうか?


「入るぞ」

 焦れたらしく、リュオンは扉を開けた。


 豪奢なシャンデリアに美しい風景画、品の良い調度品の数々が私を出迎えた。

 広いサロンの長椅子に一人の青年が横たわっている。


 顔立ちは整っていて、王都の美術館で見た彫像のよう。

 髪は黒く艶やか。


 服はシャツにズボンと、ノエル様の格好に似ているけれど、襟元にはさりげなく細やかな刺繍が施してあった。


 何やら苦しげに眉間に皺を寄せ、仰向けで眠る彼の胸には一冊の本。


 彼がユリウス・エンドリーネ、今日から私の主人となるお方だ。


「……寝てるな。良かった。寝るときはいつも傍にいたルチルがいなくなったせいで、今日も全然眠れなかったって言ってたから」


 ユリウス様の胸元から本を取り上げ、音をたてないよう静かにテーブルに置いたリュオンの声には安堵の響きがある。


 どれほどユリウス様を大切に思っているのか、その眼差しと口調で理解した。


「出よう。紹介はまた後に……。いや、ちょっと待てよ。セラ、ユーリに触れてみてもらえるか?」

「え? でも。私が――女性が触ったら大変なことになってしまうのでしょう?」


 心労ストレスがかかるとユリウス様は猫になる。


 八年ほど前からユリウス様にはそんな厄介な魔法がかかっていて、現在その心労の元になっているのが女性という存在。


 というのも、三か月前に行われた結婚式当日に花嫁に逃げられたからである。


 少しずつ愛を育んできたはずの生まれつきの婚約者に逃げられたおかげで、ユリウス様は女性不信と女性恐怖症を同時に併発する事態となってしまった。


「意識がない状態で触ったらどうなるのか実験してみてほしい。大丈夫。もし猫になってもおれが元に戻す」


 リュオンは伯爵夫妻が血眼になって探し求めた『ユリウス様の猫化を解除できる魔女』だ。


 もっとも、リュオンが行えるのは『一時的な解除』であって、本当の意味での『魔法そのものの解除』は原則魔法をかけた魔女しかできない。


 しかし、ユリウス様に魔法をかけた魔女ドロシーは行方知れずなので、リュオンにすがるしかないのが現状だ。


「……わかったわ。試してみましょう。正直に言うと、私も眠るユリウス様が苦しげなのが気になっていたから。このまま立ち去りたくなかったの」


 愛犬を失ったせいなのか、結婚式で花嫁に逃げられたせいなのか、それとも別の要因があるのか。はたまた単純に悪夢を見ているだけなのか。


 わからないけれど、とにかく、私はユリウス様の眉間の皺を取り除きたい。


 私は長椅子の前に跪き、恐る恐るユリウス様の肩に触れた。


 ユリウス様の身体に変調が起きる兆しはない。


「……意識がなければ女性が触れても大丈夫なんだな。やっぱり猫に変わる原因は精神的な心労か」

 少し離れた場所から観察していたリュオンが呟いている。


「大丈夫。大丈夫です」

 できるだけ穏やかな、優しい声で言いながら、私はあやすように軽く肩を叩いた。


「あなたは一人ではありません。皆がいます。皆があなたのことを心配しています。だからいまは何も考えず、ゆっくり休んで。もう眠る時間ですよ。大丈夫。大丈夫ですから――」

 言葉を重ねようとしたそのとき。


 それ自体が意思ある個体のように、ユリウス様の右手が急に跳ね上がって、私の手首を掴んだ。


「えっ」

 余計な真似をしてしまったせいで起こしただろうかと慌て――ユリウス様の表情を見て、その必要がないことを知る。


 ユリウス様は変わらず瞼を閉じていた。


 けれど、いままでとは違って、その眉間から皺が消えている。

 ただし、私の手をがっちり掴んだまま。


 眠っているせいか、ユリウス様の手は温かい。


「………………。えーと……どうしましょう?」

 これでは動けない。

 困ってリュオンに助けを求めると、彼は苦笑した。


「起きるまで付き合ってやってくれる? 椅子を持ってくるから」

「……ええ、構わないけれど」

 ……さて、ユリウス様はいつ起きてくださるのでしょう。

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