08:人間、ときどき、黒猫

 椅子に腰かけ、ユリウス様が起きるまで待つ。

 尻の下に分厚いクッションを敷いているとはいえ、座りっぱなしというのは辛い。


 リュオンが気を利かせて持ってきてくれた本を読もうにも、利き手ではない左手でページをめくるのは地味に大変で、何度か本を落としそうになった。


 そもそも片手を握られた状態で集中できるはずもない。


 ユリウス様の顔色は青く、目の下には隈がある。

 できる限り寝かせてあげたい、そう願う気持ちはリュオンと同じ。


 でも、そろそろ限界だ。

 右腕はとうに痺れて感覚もないし、腰も痛いし、起きて貰えないかなあ……。


 祈るような心地でユリウス様のあどけない寝顔を眺めていると、不意にその長い睫毛が震えた。


 ――起きた!


「!」

 ど、どうしよう。


 長らくこのときを待っていたはずなのに、心臓が騒ぎ出す。

 ユリウス様の瞼が持ち上がり、紫の瞳がまっすぐに私を捉える。


「…………」

 寝起きのユリウス様は二、三度と瞬きを繰り返した。


 数秒後に現実を認識したのだろう、紫の瞳が見開かれたその瞬間。


 ユリウス様の身体は一瞬のうちに猫へと変化し、着ていた服がばさりと音を立ててソファに落ちた。


 一匹の黒猫と化したユリウス様はもぞもぞと動いて身体にまとわりつくシャツから抜け出した。


 それから四肢を突っ張って紫の瞳で私を見つめ、誰だお前といわんばかりに、ふしゃー!! と威嚇する。


 耳を横に寝かせるようにピンと張り、尻尾を膨らませている!!


 でも、女性である私が怖いらしく、黒猫はちょっぴり涙目で、おまけにガタガタ震えていたりした。


 凄い、どこからどう見ても猫だ!!

 人語は話せないようだし、これは猫にしか見えない!!


 ああああなんて可愛いの……!!


 私は感動に打ち震えた。


 愛猫家の一人としては、ついつい、ご機嫌を取ってその艶やかな毛並みを撫で回したくなってしまう。


「猫になったユリウスを見るのは久しぶりだな」

 ソファに座っていたリュオンが立ち上がってこちらへとやってきた。


「セラ、おれが呼ぶまで退室しててくれるか。人間に戻すための魔法陣は組み上げたが、それでも十分はかかると思う」

 神秘的な光を放つ金色の魔法陣が彼の周囲を取り巻いている。


 冗談のような大きさの魔法陣の中には直線や幾何学模様や文字に似た何かが異常なまでの密度で書き込まれていた。


 ユリウス様が目覚めるまでの間、リュオンはソファに座って目を閉じ、ひたすらこの魔法陣を構築し続けていた。


 国内に三人しかいない大魔導師であっても、魔法の解除には手間暇がかかる。


 リュオンの話によれば、人間を変身させる魔法は空間転移に匹敵する超高難易度の魔法。


 一般人にはその存在さえ秘匿された禁止魔法だ。


 全ての魔法が自由に使えた混沌の時代、変身魔法に失敗して怪物となった魔女が暴走して国を滅ぼしたり、変身魔法を軍事転用した国が敵国の人間を異形へと変えたため、変身魔法の使い方は魔法書や文献に載っていない。


 過去の悲劇を繰り返さないようレアノールでもロドリーでも変身魔法を記述した本は全て発禁本であり、発行者は例外なく処刑されている。


 魔女の家系に生まれた私でさえ変身魔法の実在を知らなかった。


 では何故リュオンが変身魔法を解除できるかというと、エンドリーネ伯爵が裏ルートで入手した古文書を読み込んだから。


 古代語で書かれた本を読み解くには魔法の専門家でも舌を巻くような知識がいる。


 たとえ苦労の末に読み解いたとしても、解除魔法には莫大な魔力が必要なため、並の魔女では発動不可能。


 猫と化したユリウス様が役人に見つかる前にリュオンと巡り会えたことはエンドリーネ伯爵にとって僥倖だっただろう。


 他人に変身魔法をかけられた被害者だと主張することで実刑を免れたとしても、ユリウス様は貴重な古代魔法の見本サンプルとして魔法研究所に送られていた可能性が高い。


「わかったわ」

 私は涙目のユリウス様に可愛らしく――いや、本人は至って真剣なようだから可愛いなんて言ったら失礼か――威嚇されつつ、言われた通りに部屋を出た。


 パタンと扉を閉じた後、呟く。


「……変身魔法を解くのがあんなに大変だとわかっていて、それでもユリウス様を寝かせて差し上げたかったのね」


 苦笑が零れる。

 彼は私をお人好しだと言ったけれど、彼のほうがよっぽどお人好しだと思う。


「うーん」

 座り続けて凝り固まった全身の筋肉をほぐすべく伸びをしてから、私は暇潰しに別館を散歩することにした。


 まずは一階。

 厨房には夕餉の支度中のネクターがいるはずだから、挨拶をしよう。


 ちょっとした探検気分で歩き出した私は、大広間の中央で足を止めた。


 首を傾けて頭上のシャンデリアを見上げる。


 続いて金の手すりがついた階段に近づき、人差し指でつーっと手すりの表面を撫でてみる。


 指には埃一つついていない。


「この屋敷に使用人と呼べる人間はネクター一人だけよね? リュオンは魔女として仕えながら従僕の真似事でもしているのかしら? それとも、定期的に本館から使用人が手伝いに来ている? そうでないと変よね。あそこの壺もシャンデリアもピカピカだもの。四人全員が力を合わせて掃除しないと、とてもこの清潔さは保てないはず」

 しんとした大広間で一人、首を捻っていると。


「おれが『窓を開ければ自動的に小さなゴミや埃がまとめて飛んでいく』という魔法をかけてるからな。掃除の必要がないんだよ、この屋敷も本館も」

 背後からリュオンの声がした。


「そんな便利な魔法があるの!? ブードゥー様の館にいた魔女はそんな魔法使ってなかったわよ!? 私を含めた侍女たちが毎日一生懸命、窓を磨いたり床を掃いたりしてたんだけど!」

 驚きながら振り向くと、リュオンは私の前で足を止めた。


「おれが独自開発した魔法だ。魔法書にも載ってない」

「良かった。もしロドリーでは一般的な魔法だったのだとしたら、ブードゥー様の館にいた魔女は魔力惜しさにサボっていたのかと恨むところだったわ……って、そんなことよりリュオン、ユリウス様はどうしたの? まだ五分も経ってないでしょう? 何か問題でもあったの? もしかして元に戻せなかった?」

 心配になって詰め寄ると、リュオンは急に私の手を掴んで見つめた。


「? 何? 私の手がどうかした?」


「……ふ。ふふ、あははははっ。全く、セラの力はとんでもないな! 出会った瞬間に気づいてはいたが、魔法を使って確信した! レアノールの人間が誰一人、それも十七年も気づかなかったなんて信じられない! こんな魔法を使う魔女なんて国中探してもきっといない! なあセラ、きっと今頃、イノーラは《国守りの魔女》の称号を失って見る影もなく落ちぶれてるよ。確認するまでもない。並の魔女か、下手したらそれ以下になってる」

 リュオンは私の手を離し、愉快そうに笑っている。

 言葉の意味も、彼の興奮ぶりも、私には全く理解不能だ。


「どうしてそんなことが言えるの? 本当にどうしたのリュオン。もしかしてユリウス様の魔法が解けなくて、ショックで少々おかしくなってしまったんじゃ……」

「大丈夫。おれはいたって正気だ。ユーリの魔法も無事解けたよ。いつもより遥かに早く。セラのおかげでな」

 リュオンは笑んだまま私の頭を撫でた。


「……ねえ、わかるように説明して欲しいのだけれど……」

「後で説明するよ。ユーリも落ち着いたみたいだから、先に挨拶を済ませよう」

「??」

 なんでリュオンが上機嫌なのかさっぱりわからないまま、私はサロンへと引き返す彼の背中を追った。

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