和真:10話 妨害
僕は宮原を手で制し、空いている会議室に飛び込んで鍵を掛ける。
「これが最後のチャンスよ、和真。あなたいま印刷所を探しているんでしょう? 私が紹介してあげるわ」
親切めかして美佳はそう言った。
「白々しいことを言わないでくれ。君が手を回したんだろう!」
もう僕は取り繕うこともしなくなった。心の底からの軽蔑を込めてそう吐き捨てる。
「あら、酷いこと言わないで。私はあなたを助けられるって言ってるのよ」
「自分で突き落としておきながらよく言う。君の手は借りない。美佳、そっちこそこれが最後だ。これ以上邪魔をするならこの前の録音データを公表する。君が薬を入れたとはっきり証言してくれた、あの夜の音声だ」
「…………!」
電話の向こうで美佳が言葉を失う。怒りに震えている様子が目に見えるようだった。僕は返事を待たずに更に続ける。
「もう二度と連絡しないでくれ。また僕の前に現れれば、あの音声を警察に持って行く。父上がもみ消しても今度は無傷でいられないだろう」
告訴はできなくても、そんな話が出回るだけで立派なスキャンダルだ。佐伯がそんな醜聞を許すはずもない。美佳とて佐伯グループがあってこその今の身分だ。
「……っ!! もうあなたの本を刷る会社なんかどこにもないわ! せいぜい大恥をかけばいい!」
断末魔のような美佳の叫びを残して通話は切れた。彼女が馬鹿でなければもう二度と会うことはないだろう。過去の亡霊とはこれで縁が切れたと信じたい。
——それより今は、事実確認だ。僕は依頼していた印刷所に電話をかける。長く保留され、ようやく繋がった電話の向こうで、よく知った専務がため息をつく。はっきりとは口にしないが、やはり佐伯美佳が圧力をかけて仕事を止めたのだ。それに逆らえば、小さな会社などひとたまりもないだろう。
家族経営のその会社の、いつもニコニコしていた人のいい専務を責めても仕方がない。代わりにどこか心当たりはないかと尋ねると、近郊の会社はどこも同じように釘を刺されているという。
美佳の言葉はハッタリではないだろう。おそらく名の知れた印刷会社はもう美佳の手が回っているはずだ。僕たちは手分けして地方の印刷所にも片っ端から電話をかけた。だがどこも返事は同じで、今はそういう仕事を受けていない、判で押したようにそう言って断られた。
知る限りのところに電話をかけ尽くしたが、僕たちの仕事を引き受けてくれるところはひとつもなかった。過去の自分が足を引っ張る。僕はやり場のない苛立ちを抱えて、唇を噛む。
なりふり構わず、僕は知り合いに片っ端から声をかけた。バイトに来てくれる大学生にも、学生時代の同期にも、編集長時代に知り合った他社のライバルにも。打つ手はすべて打って、後は返事を待つくらいしかすることがなくなった。そうして僕は日に何度もスマホを眺めてはため息をつくのを繰り返した。宮原もツテを当たってくれている。だがどこからも色よい返事は来なかった。
そうして丸二日、なんの進展もないまま時間だけが過ぎてしまった。これ以上は経てばもう印刷そのものが間に合わない。物理的に不可能になってしまう。無駄だとわかっていても、僕はもう一度知り合いに電話をかける。気の毒そうに言葉を返してくれるが、やはり結論は同じだった。
僕の指先が、着信履歴をたどる。二日前の日付、名前もないその番号。佐伯美佳のものだ。その番号を見つめながら僕は何度も自問自答する。自分のプライドなど顧みている場合ではない。美佳に侘びて懇願すれば、今回の問題は解決するだろう。独立するという夢は遠ざかるかも知れない。だが今この企画が潰れてしまえばどのみち同じことだ。そんなことをグルグルと考えながら、誰もいない会議室でため息をつく。
その時、スマホの画面が短いメッセージを表示する。待ち受け画面に表示されたのは
川瀬くん
印刷できるところを探していると……
ポップアップで表示されるメッセージ。川瀬くんの耳にも入ったのか。僕は情けなさに苦笑しつつ、メッセージの全文を読む。
そこに書いてあったのは、何かの間違いではないかと目を疑う内容だった。高校時代の川瀬くんの恩師がずっと執筆を続けていて、同人誌を発行しているという。その人が紹介してくれた印刷所が、僕たちの依頼を引き受けてくれるかも知れない、と。あまり大きな会社ではないらしく、恥ずかしながら僕はその会社を知らなかった。だからこそ美佳とも繋がりがなかったんだろう。
僕は藁にもすがる思いで、そこに書かれた番号に電話をかけた。応対してくれた女性が、納期について確認しますといって電話が保留された。その間、僕は生きた心地がしなかったが、再び女性が電話口に戻って来て、僕は死刑宣告受けるような気持ちで唾を飲み込んだ。
いくつかのオプションが選べないこと、割増料金になること、今日中にデータ入稿すること、そんなことをいくつか念押しされるのを、僕はどこか遠くに聞いていた。はい、はい、と食い気味に返事をしながら、最後に「それでは失礼致します」の言葉を聞いて、汗ばんだ手に握ったスマホの終話ボタンをタップした。
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