和真:09話 目が覚めて

 酷い頭痛がして目を覚ますと、薄暗い明かりの中で知らないベッドの上にいた。しばらくぼんやりと部屋を見回した後、僕はさっきまでのことを思い出して飛び起きる。見るとガウンを着て布団の中に寝かされていたようだ。


「……良かった! 気分はどうですか?」


 窓際から聞き慣れた声がする。


「川瀬くん……あれからどうなったの? 僕は何か飲まされて……その先は思い出せないんだ」


「俺、ずっと聞いてたんですけど、途中で都筑さんの様子がおかしくなって、それでバーまで行ったんです。そしたらあの女性ひとと男がいて、都筑さんはもう意識がなくて……」


 川瀬くんはそう言いながらボトルの水を差し出す。


「録音してたことを言ったら、あの人めちゃくちゃ怒ってましたけど、それでも渋々帰って行きました。……あ、飲まされたのは軽い鎮静剤だそうです。救急車呼ぼうとしたら止められて……」


「そうか、君がここに運んでくれたの?」


「はい。数時間で薬は抜けるって言われましたけど、心配で……」


「もしかして一睡もしてないのか? いま何時?」


「えーと……もうすぐ三時半、ですね」


「すまない、こんなことに巻き込んでしまって。まさかここまでやるとは思っていなくて。恐喝の証拠を録れればいいと思ったんだけど……」


「びっくりしました。本当にこんなことってあるんですね。ボディーガードみたいな人がいましたよ」


 笑ってそう話す川瀬くんだが、一人で美佳とその取り巻きと渡り合ったのだろうか。


「美佳は……あの女は君に何もしなかったか?」


「俺が無理やり飛び込んだんで、ホテルの人がすぐに追いかけてきて。そこにぐったりした都筑さんがいましたから、彼女もそれ以上手出しは出来ませんでした。俺は酔った上司を迎えにきて、ここに部屋を取っていると説明しました」


「そうか、よかった……ありがとう」


「都筑さんも、もうほとんど意識不明でしたけど、なんとか話を合わせてくれて。ギリギリ歩いて部屋まで来ました」


 僕が自分で部屋を取っていたから、最低限の身元は確認できたということか。美佳もここの常連だろうし、ホテル側もそれ以上の追求はしなかったんだろう。


「チェックアウトまでだいぶある。君も少し眠ったほうがいい」


「あ……いや、でも……」


 川瀬くんが歯切れ悪くそう言って、言葉を探している。僕はまだ少し霞んだ思考回路でその理由を探す。


「もしかして、なにか用事があった? ……それはほんとに申し訳ないことをした……」


「いえ、そうじゃなくて……その……ベッドが、」


「……あ、そうか……そうだね……」


 僕が取った部屋はダブルだった。つまりベッドは僕がいるこの一台だけ。それで遠慮してあの小さなソファに座っていたのか……


「君が嫌じゃなければ、隣で休んで。少しでも横になったほうがいい」


「いや、でも……それじゃ都筑さんが休めないですよね」


「僕はまだちょっとダルくて、すぐ寝ちゃいそうだよ。気にしないで」


「嫌じゃ、ないんですか。……俺と同じベッドなんて」


 川瀬くんが言わんとするところが何となくわかった。改めて同じベッド、と考えると何となく気恥ずかしくもなるが、今はそれどころじゃない。


「信用してるよ。君、弱ったおじさんに悪さしないでしょ」


 僕は苦笑しながらそう言った。川瀬くんはきまり悪そうな表情で自分の髪をクシャクシャとかき混ぜた。


「シャワーを浴びるといい。僕はもう少し休むよ。君も遠慮しないで少し眠って」


「……はい、じゃあそうさせてもらいます」


 僕はその声を聞き終わると同時に、また眠りに落ちた。沼に引きずり込まれるような、抵抗できない意識の喪失は少しだけ気持ちが悪かった。


 和真、あなた後悔することになるわよ?


 怒りを押し殺したような、美佳のその低い呟きが、夢なのか記憶なのかはっきりしない。頭は休まらず、体だけがベッドに押し付けられているような疲れる眠りだった。何度か寝返りをうち、意識が浮上してくる感覚にハッとして目を開ける。


 隣の人影が身じろぎをする気配があった。そうだ、隣に川瀬くんが眠っているはずだ。僕は静かに深呼吸をして、まだ薄暗い部屋に目を凝らす。


「起こしちゃいましたか?」


 遠慮がちに小声で川瀬くんが言う。僕は、川瀬くんに、好きだ、無事でよかった、と繰り返し囁かれながら抱きしめられる夢を見た後で、どうにもバツが悪かった。


「ん……ああ、ちょうど目が覚めたところだよ。すまない、時計を見てくれる?」


「いま九時半です」


「君も、少しは眠れた?」


「はい。よく寝ました」


「そうか、よかった。……そういえば川瀬くん、食事は……もしかして昨夜から何も食べてない……?」


「……あ、そう言えばそうですね」


「そうだよね! 気が付かなくてごめん。何か頼もう」


 僕は慌ててルームサービスを頼んだ。すると川瀬くんがどこかソワソワと落ち着かない。


「お、俺シャワー浴びてきますね」


「そう? 食事もうすぐ来るよ」


「……すぐ済ませます」


 そう言って川瀬くんはベッドから抜け出し、前かがみになってシャワールームに逃げ込んだ。僕はその後姿を見て、大学生の若さが羨ましいと思って吹き出した。遅い朝食を済ませ、チェックアウトしたあと、川瀬くんは僕のマンションまで付き添ってくれた。トラブルに巻き込んでしまった上に、休日を台無しにしてしまった僕は申し訳ないと思いながらも、ホッとしているのを否定できなかった。



 *****



 急な知らせが飛び込んできたのは、文芸フェスが十日後に迫る午後だった。宮原がいつになく慌てて僕のデスクに来ると、製本を依頼していた印刷会社が、今回の発注をなかった事にしてくれと告げてきたと言う。僕は驚いて言葉を失う。瞬間、脳裏によぎったのは美佳のあの言葉だった。


「和真、あなた後悔することになるわよ?」


 彼女と、その父親ならこれくらいは容易いだろう。電話を一本掛けるだけだ。小規模な同人誌程度の仕事など簡単に潰すことができるだろう。だが今は犯人探しをしている場合ではない。残り一週間で納品できる印刷所を探さなければ。手当り次第に、交換した名刺の相手に電話を掛ける。佐伯の息のかかった相手を除外すれば、残りは数えるほどしかなかった。それでも一縷の望みをかけて電話帳をスクロールする。


 するとそこへ美佳からの着信を知らせる画面が現れた。無視したところで恐らく彼女は諦めたりしない。むしろ今より強引な方法に出る可能性のほうが高い。僕はこみ上げる怒りから自分を切り離すために、大きく深呼吸をし、覚悟を決めて通話ボタンをタップした。


「何の用だ」


 低く潜めながらも嫌悪感を拭えない僕のその声を聞いて、宮原がデスクの向こうから心配そうにこちらを見ている。相手が誰だか察しがついているのだろう。


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