21話 無事でいてください
突然、都筑さんから電話がかかってきたのは金曜日、講義の後、図書館にいる時だった。ポケットの中でスマホが震え、確認するとそこに「都筑さん」の文字が表示されている。俺はあわてて部屋を出て廊下の隅で電話を取る。するといつになく緊張した声で都筑さんが話し出した。
内容は、今夜シャングリラ・オリエンタルホテルに来てほしいというものだった。唐突な話ではあったが都筑さんのことだ、きっと何か必要に迫られてのことに違いない。俺は承諾して、詳しい説明を待った。
時間と最寄りの駅、そして最後に、スーツで来てくれと言われて、俺は入学式に着たきりの紺色のスーツを思い出しながら返事をする。都筑さんは詳しくはその時に話すと言うが、声色からしてパーティーへの誘いではないことは何となくわかった。
通話を切った後、スマホで調べると、シャングリラ・オリエンタルホテルというのは都内でも屈指の高級ホテルだった。ホームページの画像を見ると超高層ビルだった。宿泊プランの値段は想像を遥かに超えていて、しかもそれが一人分の一番シンプルな部屋の値段だと言うことを知って更に驚いた。確かにTシャツとジーンズでは門前払いだろう。
アパートに戻ると、クローゼットからスーツを引っ張り出す。ちゃんとクリーニングに出しておいて良かった。ワイシャツとネクタイ、奥の箱から革靴もどうにか見つけ出し、俺は身支度を整えた。久しぶりで上手くできず、歪んでしまうネクタイを二度締め直し、大して変わらないので諦めてアパートを出た。
地下鉄に乗り換えて最寄りの駅に着き、地上へ出てみるとすぐ目の前にホテルがあった。それは近づくと天辺も見えないような高層ビルで、車寄せの向こうに見えるエントランスの前には門番のような二人が直立している。俺は見咎められてつまみ出されるのではないかと内心ヒヤヒヤしながら、どうにかその関門をくぐり抜けた。
大きなガラスのドアを抜け中へ足を踏み入れると、シャンデリアと落ち着いた色の内装が広いロビーを眩しく輝かせている。だがそんな絢爛なロビーは俺にとっては落ち着く要素が皆無で、不審者のようなぎこちなさでなんとか奥のラウンジにたどり着く。都筑さんにはここで待つように言われている。開いたメニューはどれも値段が四桁で、俺はしどろもどろになりながらコーヒーを注文した。
コーヒーが運ばれてくるのとほぼ同時に都筑さんが現れ、俺は思わず立ち上がって迎える。
「お待たせ、急にこんなことを頼んで申し訳ないね」
「あ、いえ」
「説明するよ。掛けて」
都筑さんもコーヒーを頼み、一口飲むとカップをソーサーの上に置きながら話し始めた。淡々と話すせいでつい聞き流しそうになるが、内容は立派な恐喝ではないか、と俺は内心で思った。
「川瀬くんは僕が取った部屋で待機してて欲しい。通話をずっと繋げておくから、これで録音して万が一の事があれば通報してくれ。向こうもまさか手荒な手段に出ることはないと思うけど、これ以上勝手な真似をされたくないんだ」
「手荒なことって……」
小さなレコーダーを受け取りながら、俺は誘拐だの傷害だの、不穏なあれこれを想像して肝が冷える。
「人目があるから、騒ぎは起こさないだろうね。せいぜい脅してくるぐらいだと思うけど。念のための保険だよ……一筋縄じゃ行かない相手なんだ。今回は宮原に頼めなくてね」
「はい、俺にできることならなんでも」
「心配しなくても、部屋で待っててくれるだけでいいよ。三〇分くらいで戻れるだろう」
そう言って都筑さんは小さく笑った。最上階のバーで待ち合わせらしい。ロビーでチェックインを済ませ、カードキーを渡される。そのままエレベーターに乗り込む都筑さんを見送って、俺は一抹の不安を拭えないまま、次のエレベーターを待って高層階にある部屋に向かう。部屋に着くのと同時に都筑さんからの電話が鳴る。
「はい」
「もしもし? 聞こえ方はどう?」
「問題ないです。よく聞こえます」
「マイクを用意しておいてよかった。じゃあこれから行ってくる。もう話せないけど、このまま川瀬くんはそこで待ってて」
「はい、あの……気を付けて」
「うん……ありがとう」
それを最後に、都筑さんの声は遠くなった。代わりにホテルのスタッフが都筑さんの名前を尋ねる声がはっきりと聞こえる。外付けマイクで拾っているらしい。俺は渡されたICレコーダーをスマホの近くに置く。録音している間は静かにしていたほうがいいだろう。夜景の見える窓際に置かれたソファに体を沈め、スマホが拾う音に耳を澄ませる。
いつか店に来ていたあの派手な美人だろうか。女性の声が聞こえる。しばらく何やら昔の二人の思い出話が続く。あの美佳という女性、彼女が都筑さんの婚約者だったことを知る。俺は盗み聞きをしているようでバツが悪かった。……まあ実際盗み聞きをしているのだが。
——結婚。当然といえば当然なのだろう。社会的な地位もあり、才能もある男性だ、あちこちに出会いもあるだろう。そんなどうってことない話が、いちいち俺の胸に刺さる。二人の会話を聞きながら、俺は一人で赤くなったり青くなったりしていたが、そのうちに雲行きが怪しくなってきた。
美佳さんは都筑さんに復縁を迫り、都筑さんはそれを拒む。話の流れからするとただの痴話ゲンカとはレベルが違うようだ。俺はハラハラしながら会話に耳をそばだてる。明らかに様子がおかしいと思ったのは、都筑さんが酒に何を入れたか、と言った時だった。そこからは都筑さんの声がほとんど聞き取れなかった。ただ微かに一度だけ、俺は名前を呼ばれたような気がした。
待ってろと言われたが、俺はじっとしていられない。最上階のバーは、確かシリウスと言ったか。
俺はスマホを掴んで部屋を飛び出した。廊下を走ってエレベーターホールのボタンを押す。八基あるエレベーターの動きを睨みながら、ドアが開くと飛び込んで最上階のボタンを押す。今いるのが三十八階。シリウスは五十二階だ。
叩くようにボタンを押して上昇していく表示を見つめる。このまま止まらずに行ってくれと祈った途端、途中階でエレベーターが止まる。四十七階。家族連れが乗ってきた。確か最上階の下にはレストランやスパがあった。彼らはそこで降りる可能性が高い。
俺は咄嗟に、降りますと叫んでエレベーターを飛び出した。階段を走って五十二階のドアを開ける。エレベーターホールのすぐ先に見える、ステンドグラスで囲まれた入り口に飛び込んだ。
五階分の階段を駆け上った俺の太ももが言うことを聞かず、つんのめりそうになる。息が切れて、吹き出す汗も酷い。スタッフが何か叫んでいたが、俺は構わず奥へ走る。一番奥の人目につかず静かなソファー席、俺が目にしたのはそこで男に抱きかかえられ、ぐったりとした都筑さんだった。
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