和真:08話 長い夜

 ロビーを過ぎ、エレベーターを呼ぶ。フロアに敷き詰められた深い絨毯が足音を消して、まるで誰もいないような不思議な錯覚を僕にもたらす。あの頃は自尊心をくすぐるだけだったその豪奢な内装が、今日は僕を憂鬱の底へ突き落とす。


 気味が悪いほど静かなエレベーターの中で、僕はきっと死刑囚のような顔をしているだろう。到着を告げる控えめな電子音に、僕は諦めの境地で一歩踏み出す。シャングリラ・オリエンタルホテルの最上階、東京の夜景を一望する、バー・シリウス。


 入り口で名を告げると、そのまま奥の席へと案内される。近づくと、はっきり見えなくても間違えようもない香水の匂いがした。近づくと、彼女が席を立って僕の腕に触れた。


「待ってたわ、和真。来てくれなかったらどうしようって不安だったの」


 心にもないことを言う。その表情が見えなくてもはっきりとわかる。彼女の満足げな微笑みが。


「手短に済ませてくれ」


「つれないことを言わないで。まずは思い出の場所で乾杯しましょ」


 僕は手を引かれ、ソファの彼女の隣に腰を下ろす。


「あなたも同じものでいいかしら」


 こんな状況で酒の味など、何を飲んだって変わりはしない。形ばかりの乾杯を済ませ、グラスに口をつける。思い出話をしに来たわけじゃない。僕はグラスをテーブルに置き、背もたれに体を預けると、それで、と切り出した。


「話というのは?」


「あなた、変わったわね。少しくらい浸らせてくれたっていいじゃない。……まあいいわ」


 諦めたように小さく肩をすくめ、美佳もグラスを置いて話し始める。


「和真、私はやっぱりあなたしか考えられないの。私の初恋の人だもの。あなたも知ってるでしょ? あなたと婚約するために私がどれだけ苦労したのか。お父様を必死で説得したのよ。あなたがここでプロポーズしてくれた時、嬉しかったわ」


 ものは言いよう、とはこの事だ。美佳はどこかのパーティーで見かけた僕に目を付けて、父親の影響力を駆使して自分の欲しい物を手に入れようとしたに過ぎない。おもちゃを欲しがる子供と同じだ。その当時の僕はそれなりに名前が知られるようになっていて、佐伯の婿養子にちょうど良かったんだろう。もともと娘に甘かった父親は、僕に破格の条件を提示した。

 

 だがそれも、僕の目の事が分かるまでのほんの短い間のことだった。美佳も初めこそ泣いて父親にすがり、僕と結婚すると言って聞かなかったが、治る見込みがないと知るといつの間にか僕の前から姿を消した。


 きっとまたどこかで僕の話を耳にして、昔捨てたおもちゃが惜しくなっただけだろう。佐伯美佳はそういう女だ。野心に燃えていた頃の僕は、それを利用すればいいとすら思っていた。だが今は、僕の人生に彼女も佐伯の力も必要ない。


「二人の気持ちを話せば、きっとお父様も許してくれるわ。私に考えがあるの。今夜、階下したに部屋を取ってあるわ。そこで一晩私と過ごすのよ。明日の朝、二人でホテルを出るところを記者に撮らせるわ。そうすればお父様だって認めるしかないもの。ね、いい考えだと思わない?」


 もはや理解出来ない。この女は一体何を言っているのか。常識も通用しない、独善的で身勝手な考えに吐き気がする。そう思った途端、僕は体の芯が急激に冷えていくのを感じた。気のせいかと思ったが、指先が冷たい。意識が遠のいていく感覚に、必死に抵抗する。


「美佳、まさか……酒に何を入れた?」


「だって和真、ちっとも話を聞いてくれないんだもの。大丈夫、体に害はないわ。少し眠くなるだけ」


「何を入れた!」


「そんなに心配しないで。私の睡眠薬をちょっと入れただけよ」


 強烈な花の香りが僕の鼻を刺す。冷たく乾いた手のひらが、僕の頬を滑っている。ああ、気持ちが悪い——目が回って天井の照明が滲む。


「あなたたち、彼を部屋に運んでちょうだい。ああ、そっとね。彼はもうすぐ夢の中なの」


 途切れた意識が薄く戻ると、美佳の声がやけに遠くに聞こえた。すぐに誰かの腕が僕の体を抱き起こす。やめてくれ、僕に触るな。遠ざかる声を聞きながら、僕は頭の中で何度も名前を呼んだ。男の腕から逃れようと必死にもがく。男を突き飛ばした勢いで、僕もよろけてソファに倒れ込む。しばらく闇雲に抵抗したが、もう腕を持ち上げることも出来ない。僕は最後の気力を振り絞ってかすれた声を出す。


「……美佳……僕が何の用意もなく君に会うと思ったのか……?」


「なんですって?」


 美佳の声が急に温度を下げる。


「……ぜん……ぶ、ろく、おん……し……」


 僕を抱えていた腕が、わずかに緊張し、沈黙が続く。美佳の指示を待っているのだろう。だが美佳が言葉を発する前に、僕から冷たい腕が引き剥がされ、崩れるように膝を折った僕を、別の腕が抱え上げた。


「あなた誰? 何のつもりなの? 警備を呼ぶわよ」


 美佳の声に怒りと動揺が滲む。その声を断ち切るように別の声が鋭く響く。


「それはこちらのセリフです。あなた方のしていることは犯罪です。すべて聞きました。録音もしてあります。必要なら警察を呼びますよ。——何を使ったのか知りませんが明るみに出て困るのはそちらでは?」


 ああ、この声はよく知っている……美佳が声を荒げてヒステリックになにか叫んでいたが、僕はそれを聞き取れずに意識が途絶えた。



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