和真:07話 不穏な電話

 文芸フェスの概要をLINEで送り、その返事を受け取ったあと、川瀬くんと顔を合わせる事はなかった。準備は着々と進んでいた。知人のツテで大学の文芸部の子たちがボランティアとして参加してくれることになり、会場での売り子は確保出来た。参加してくれる作家も、さすがに会場入りは出来ないが、SNSで何度か告知してくれて、インプレッションもかなりの数になっている。

 

 無事に印刷所への入稿も済ませ、イベント準備の山場をどうにか乗り越えた。あとは当日の納品と設営を残すばかりになったある日、珍しい人物から電話があった。スマホの画面に表示された発信者は佐伯美佳、きっとろくな話じゃないだろうと、僕は電話を取る前から憂鬱になる。


「もしもし」


「ああ、和真? 私よ。この前の話、そろそろ前向きな返事がほしいと思って」


「その話なら何度もしただろう。僕たちはもう終わったんだ」


「あのときは、お父様が勝手に破談にしてしまったのよ。何度も謝ってるじゃない。いい加減に許してくれてもいいでしょう」

 

「そういう事じゃないんだ。……あの頃の僕は、まだ青くて野心的だった。だから君のお父さんの会社に用意された椅子に目が眩んだんだ。でも僕の目のことが分かって、あっという間に白紙になった。今思えば僕にとってもそれが最善だったと思ってる」


「そんな事ないわ、和真。あなたはうちの会社でもっと活躍できる。あのときはお父様も、動揺してたのよ。だってそうでしょう? 跡継ぎになるはずのあなたが、急に障がい者になってしまったと聞かされたんですもの。でもあれから調べさせて色々分かったの。あなたのその障がいは遺伝しないんですってね。それに今も変わらず仕事を続けているじゃない。何も諦めなくていいのよ」


 相変わらず自分勝手なことを言う。僕は心の底から三年前の縁談が破談になったことに感謝した。彼女の父親は、大手の出版社とマスコミグループのオーナーだ。その当時の僕は、ちょうどあちこちに名前が売れ始めていて、自惚れていた。だから持ち込まれた彼の長女との縁談で得られる地位はとても魅力的に思えた。愛情だの信頼だのは後回しでよかった。力を手に入れれば、そんなものはいくらでも後からついてくると思ったから。


 だが、入籍と挙式の予定を立てているその最中、突然僕の目は光を失った。当然隠しおおせることではない、すぐに佐伯の家もその事実を知ることになる。そこからはあっという間だった。まるでその縁談は始めから存在しないもののように、僕と佐伯家との関わりは途絶えた。


 僕だって彼女を心から愛していたわけでも誠実だったわけでもない。恨みっこなしのただの交渉不成立に過ぎない。その後も、佐伯美佳には何人かのお相手が報道されていたのを見かけた。


「美佳、やっぱり僕と君は永遠にわかり合えそうにないな。確かに以前よりも少し困難ではあるけれど、僕には何の障がいもないよ。何ひとつ諦めてなんかいない」


「そんな嘘をつかなくていいのよ。お父様は私が説得するわ」


「いい加減にしてくれ。はっきり言おう。僕は君とは結婚しないし、君のお父さんの会社に入ることもない」


 いつまでも平行線を辿るようなこの不毛なやり取りを早く終わらせたかった。電話の向こうでは美佳の沈黙が続く。自分が圧倒的に優位な取引で、まさか僕に断られるとは微塵も思っていなかったのだろうと窺える。


「和真、あなた可愛がってた部下がいたわね。なんて名前だったかしら……確か……宮下くん?」


 唐突に出された第三者の名前。白々しい言い回しをしているが佐伯のことだ。宮原についてはもう調査済みなのだろう。そして今その名前をチラつかせてくるということは——。僕は努めて冷静を装って、短く答える。


「何が望みなんだ。……宮原には手を出すな」


「あら、人聞きが悪いわね。私はあなたとやり直したいだけよ。八時にシャングリラ・オリエンタルのバーで待ってるわ。私たちの思い出の場所よ。遅れないでね」



*****



 定時を過ぎているのは分かっていた。時計を見ると六時四十分になろうとしているところだった。子供が歯医者に連れて行かれる時はきっとこんな気分なんだろうな、と他人事のような感想が頭をよぎる。このままオフィスで粘っても、佐伯美佳に会いに行かなければならない事実は変わらない。僕は諦めの息を吐き出して、鞄を手に取り、オフィスを出た。


 地下鉄の駅で電車を降り、ホテルまで歩きながら僕はあの頃のことを思い出していた。何もかもが上手く行っていたあの頃。美佳との婚約が持ち上がった時、僕の頭にあったのは、その結婚によって得られる地位と影響力についてだけだった。写真で見た美佳は文句なく美人だった。僕の感想は「どこに帯同するにも不足はない」——我ながら酷いものだ。今になってその思い上がりに相応しい罰が下されようというのだろうか。


 地上五十階を超える高層ビルを見上げる。見上げたところで僕には一メートル先ですらはっきりとは見えないと言うのに。「思い出の場所」なんてそんな感傷的なものでもない。ただ僕が事前に書かれたシナリオ通りの形式的なプロポーズをした場所だ。

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