和真:06話 お似合いの二人

 あの何とも言えない夜のあと、僕は久しぶりに川瀬くんのいるカフェに立ち寄った。いつまでも気にしていると思わせたくなかったし、時間が経つほどにあの出来事に意味があったように思えて来るのが怖かった。


 ガラスの自動ドアの向こうの人の気配に目を凝らす。はっきり見えなくても分かる。あの大きなシルエットは川瀬くんだ。僕は自分を奮い立たせるように短く息を吐き、ドアを抜けるとカウンターに近づいた。


 レジの列に並び、いつもと同じカフェラテを注文しようとちらりと見たカウンターの端、耳を澄ますと声が微かに聞こえる。とぎれとぎれではあるが、間違いなく川瀬くんの声だ。隣りにいるのは女性客だろうか、二人で何やら話している。やがて二人は連れ立って客席に向かい、隅の席へ腰を下ろした。川瀬くんの知人らしい。


 僕は視界の隅に二人を追いかけながら、無意識のうちに二人のそばの席へと足が向いた。川瀬くんは背を向けている。その向かいに座るのは若い女性のようだ。声の印象からして川瀬くんと同世代だろう。二人の話を盗み聞きするなんて、我ながら行儀の悪いことだと思う。けれど何か、不安がひとかけら、胸のうちで痛んだような気がして、僕は二人から目が離せなかった。


 しばらく二人は、話題の新刊や、映画のことを話していた。僕の漠然とした胸のざわつきが杞憂であったのかと、体から緊張が抜けようとしたその時、声が耳に飛び込んでくる。


「いつもすごく優しいんだけど……でもみんなに優しいでしょ? だからなんか不安っていうか……ほんとに私のこと好きなのかなって」


「……それは、ちゃんと好きだよ。彩夏ちゃんのこと。じゃなきゃ付き合ったりしないよ」


「ほんとに? 信じていいの?」


「大丈夫だよ」



 川瀬くんが、優しく宥めるように彼女に言って聞かせる。好きだ、信じてほしいと。彼女はとても嬉しそうに、ホッとした笑顔を見せた。その当たり前すぎる光景に、僕の鼓動がうるさく響くのはなぜだろう。僕は自分で彼に言ったじゃないか。有り得ない、想定外だ、と。


 あの性格に、恵まれた容姿なら相手に困ることはないはず。あの夜のことは酒の勢いだったんだ。まだ若い彼のことだから、酒に酔っていたずらをしたようなものだろう。あの出来事は、少なからず川瀬くんの僕に対する好意によるものなんだと思っていた自分がまるで馬鹿みたいだ。


 僕は自嘲めいた長い溜息を吐き出して、カップに口を付ける。何の味もしないその温い液体を飲み込み、たった今耳にした話を上書きするように、本来の目的をもう一度思い出す。


 やがて彼女が店を出て行き、席には川瀬くんがひとり残った。僕は立ち上がり、唇を笑顔の形に持ち上げる。


「少し、いいかな」


 僕は感情を切り離し、編集者としての考えを彼に伝える。作家としての川瀬くんの可能性を宮原は認めた。僕もその評価を支持する。まだまだ粗削りで、稚拙な部分が多い。だがそれは、すべてが今以上になる可能性を秘めた伸び代でもある。僕はそれを見てみたいと思った。それは確信している。


 僕たちの企画に川瀬くんを誘った。彼にとってもいい経験になるだろう。そして僕のやりたいことはこうしてひとりひとりの作家と、ともに成長していくことだ。ただの成果物のやり取りではない、ともに作り上げる創作を目指したい。


 川瀬くんは僕の意図を理解してくれたようだった。イベントへの参加も前向きに考えてくれている。ひとまず編集者としての役割は果たせた。それなのにどうして僕の気分はこんなに沈んでいるのだろう。


 川瀬くんの緊張を孕んだ声が、自分の作品に対する僕の評価を気にしているから? 彼は僕よりずっと年下で、眩しいほどの青春の真ん中にいてその隣には彼にふさわしい人がいるから? 彼があの声で僕以外の人に語りかけ、あの手のひらで僕以外の人に触れるから?


 僕はいつからこんなに他人を欲するようになったのだろう。自覚しているよりずっと弱くなってしまった自分の心に、僕は愕然とする。


 スマホが着信を知らせてポケットの中で震えた。確認すると、イベントに賛同する作家の人数も揃い、本格的に動き出すことになったという知らせだった。文芸フェスに参加する。だがあくまでも出版社としてでなく、僕の個人的な活動として社の予算は一切使わない。だからニュースにはならないし、大型書店に平積みされることもない。


 その代わりに、何のしがらみもない。売れないかもしれない、受けないかもしれない、そのリスクに萎縮することなく、書き手は書きたいことを書く。そして僕たちも自分の感性だけを頼りに新たな才能を発掘する。僕たちだけの同人誌だ。いつかメジャーな文学賞にも引けを取らない、ベストセラーを生み出す母体になりたい。僕は半分以上残ったカップの中身を捨て、店をあとにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る