20話 都筑さんの誘い
彩夏ちゃんは一通り話したら気が済んだのか、しばらく話をしたあとに店を出て行った。休憩時間はまだ半分残っている。俺はアイスコーヒーを一口飲み、小さくため息をついてソファにもたれた。恋愛について人にアドバイスできるほどの経験はないが、俺だったら好きな人が最優先だけどなあ、などと考えながら最後に見た都筑さんの表情を思い出し、俺はため息をついて目を閉じた。
「川瀬くん」
聞き慣れた声が俺を呼んだ気がして、居眠りで夢でも見たのかと俺は慌てて目を開ける。テーブルの脇に、夢じゃない本物の都筑さんが立っていた。
「……都筑さん」
あの夜以来何日ぶりだろう、五日、いや一週間か。俺は驚いて立ち上がる。都筑さんは少しだけその視線を揺らして、しばらく動きを止め俯いたあと、意を決したように顔を上げると、控えめな声で言った。
「少し、いいかな」
「……っ、 はい! あの、どうぞ掛けてください」
「失礼するよ」
そう言って都筑さんは俺の向かいのソファに腰を下ろす。手に持ったカップをテーブルに置いて話し出す。
「この前見せてもらった原稿なんだけど」
「はい」
「宮原の評価はもう見たと思うけど。彼は君の作品をかなり気に入ったらしいんだ。それで、今度僕たちが企画しているイベントに参加したらどうか、という話になってね」
「イベント、ですか……?」
「うん。川瀬くん、同人誌って知ってる?」
「はい、自分たちで本を作るんですよね」
「そう。僕たちも、出版社を通さない同人誌を作ってるんだ。そしてそれを次の文芸フェスに出す。ああ、今回の入稿には間に合わないから、川瀬くんの作品は載せられないんだけどね。内容とか雰囲気とか、勉強になるんじゃないかなって」
俺は、都筑さんの仕事の一端を垣間見られることに興奮した。俺の文章が載るとかそんなのは後回しだ。都筑さんと一緒に仕事が出来る、それだけでどれほど貴重な経験だろう。力仕事でも雑用でもいい、俺もその場にいたい。
「あの、ぜひ参加させてください。俺、なんでもします」
「そうか、よかった。よろしくお願いするよ」
俺は膝の上に丸めた拳に力を込める。手汗をかいてベタベタの手を握り直して意を決する。
「あの! ひとつだけ、ひとつだけ教えて下さい」
「うん、なにかな?」
「都筑さんは、……どう思いますか? その……俺の……げ、原稿について」
「そうだね。題材がユニークでいいと思うよ。文章も安定してる。キャラクターもしっかり立ってて魅力的だしね。ただ、最後のあの展開は、ちょっと強引だったかなと思う。もう少し枚数使って書き込んだら、読者も共感出来るんじゃないかな」
「は、はい。あの、もう少し推敲してみます」
「うん、また詳細はLINEで送るよ。じゃあ僕はこれで。そろそろ戻らないと」
「はい。ありがとうございます」
俺が本当に聞きたかったのは、原稿についてなんかじゃなかった。あの日、あの夜、俺がしたこと——都筑さんは俺のことをどう思いますか? だがそれを聞いてしまったら。
お前の顔など二度と見たくないと言われたら。そう思うと俺は結局あの日のことを口に出せなかった。俺は掛けそびれた言葉を飲み込んで代わりに小さく息を吐き、店を出ていく都筑さんの背中を見つめた。
エプロンを首に掛け振り返ると、そこには驚きの表情を隠さない美咲さんがいた。
「川瀬くんの好きな人って、あの人……?」
美咲さんの口から漏れたその言葉に、俺は文字通り凍りついたように動けなくなった。
「えっ……」
「おお、そうなんだ。やだー、私ってば勘違いしちゃった。……でも確かに、川瀬くんにはあれくらい大人がいい気もするわ」
一人で納得したように頷きながらそういう美咲さんを、俺は焦点の合わない目で見た。
「あの人って、川瀬くんがぶつかってグラスひっくり返した人だよね。そう言えばよく見かけるよね。常連さんだったんだ」
「あ、あの……美咲さ……」
「ん?」
「あの、このことは、俺が勝手に思ってるだけなんで……その……」
俺は血の気の引いた顔と体で、ようやく必死にそれだけを言った。口が乾ききって、うまく舌が回らない。そんな俺を見て美咲さんは目を丸くし、そしてすぐに笑って言った。
「そんなん、もちろん誰にも言わないし。お邪魔はしませんよ」
心なしか楽しそうにニヤニヤしている気がするが、そんなことより、美咲さんは俺の好きな人が男なのは気にならないのだろうか。
「……驚かないんですね」
「え? ……ああ、あの人が男の人だから?」
「……はい」
「うちの兄貴がね、ゲイなの。――高校生の頃に言われて。その時はさすがに少しは驚いたけど、誰を好きになるかなんて、ね。自分にも分からないものでしょ」
「――そうだったんですね」
「うん。だからまあ、性別はなんとも思わないね。むしろあのあと何がどうなって今に至るのか、そこが気になって仕方ない」
美咲さんはニヤリと笑って瞳を輝かせた。俺は散々美咲さんにからかわれて詰め寄られて、降参の体でゴミを集めてくると言って逃げ出し、裏に捨てに行った。熱くなった顔を少し冷ましてから店に戻った。
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