19話 私のことどう思ってるのかな

「……くん、川瀬くん……川瀬くん!」


「っは、はい! すみません」


 俺は慌てて顔を上げ、美咲さんに謝る。シンクの前で、蛇口から水が出しっぱなしになっていた。この数日、こうしてバイト中でも講義中でも、たびたび都筑さんの最後の表情を思い出してはすべての思考が停止してしまう。


「どうしたの、ぼーっとして」


「いえ、あの、なんでもないです。ちょっと寝不足で……」


「なんか様子がおかしいよ? 具合でも悪いんじゃないの?」


 美咲さんは鋭かった。俺がこのバイトを始めたときからずっと面倒を見てくれて、俺が何か失敗をすればいつも一緒に対応してくれた。俺より七歳年上で、資格を取るために会社をやめてバイトをしていると言っていた。よく気がつく人でいつも周りの面倒を見ている。心配そうに俺を見ている美咲さんを、いま誤魔化せたとしてもすぐにバレるだろう。俺は覚悟を決めた。


「体の調子は何ともないです……けど……俺、すごい尊敬する人に失礼なことをして怒らせてしまって、それでどうすればいいのか分からなくて、考えだすと止まらなくて」


 俺は言葉を選び選び、嘘にならないように美咲さんに説明した。美咲さんは少し驚いた顔をして腕を組み、ふーん、と呟いてしばらく俺の顔を眺め、言った。


「川瀬くん、その人のことが好きなんだ?」


「は、……え? いや違います、すっ好きとかじゃなくて尊敬して、……え? なんで? 俺いま何て言いました?」


 俺は好きな人だなんて一言も言ってないはずなのに、なんで美咲さんがそんなことを言ったのか分からずに軽くパニックになった。


「尊敬する人を怒らせて、どうすればいいのか分からないって言った」


 腕を組んだまま淡々とそう言う美咲さんの、顔とセリフが一致しなくて俺はますます訳が分からない。


「え、そ、そうです。尊敬する人が……」


「いやいや、それ好きな人でしょ。尊敬する人なんて、ただの先輩だか先生だかを怒らせたって、そんなこの世の終わりみたいにならないから普通」


「そ、そんなこと……」


 俺は弱々しく抗議したが、すぐに美咲さんの言葉に遮られた。


「何やったの? 浮気? ……はないか、川瀬くんだもんね。なんか約束すっぽかしたとか?」


 美咲さんは半分怒ったような顔で俺に詰め寄ってきた。俺は必死でどうにか取り繕おうとあれこれ考えたが、まともな言い訳を一つも思いつかず、不織布のクロスを握りしめて、シンクの周りを何度も何度も拭きながら冷や汗をかいた。そんな俺に追い打ちをかけるように、さらに美咲さんが踏み込んでくる。


「最近よく来るあの子でしょ? 清楚系の」


「いやいや、違いますってば」


「とにかく早めにちゃんと謝っときなよ? どこか落ち着いた雰囲気のお店に連れてってあげるとかさ」


 美咲さんが言うあの子、とは彩夏ちゃんのことだ。最近彩夏ちゃんがよく店に来るようになった。読んでいる本の好みが意外に似ていて、それから度々話をするようになったのだ。悪魔のような笑顔でグイグイくる美咲さんに追い詰められて、もうダメかと思ったその時、美咲さんが入り口を見つめて目を丸くする。


「噂をすれば! ほら! ちゃんと謝って仲直りしなよ!」


 俺は都筑さんが来たのかと思って慌てて店内を見回す。だがどこにも都筑さんはいなかった。美咲さんが俺のエプロンをグイグイと引っ張りながらレジ前を見る。つられてそちらを見ると、彩夏ちゃんがレジに並んで、こちらに小さく会釈した。


「よかったー。お休みじゃなくて」


 注文したキャラメルマキアートを受け取りながら、彩夏ちゃんはそう言って笑った。


「ああ、うん。今日はひとり?」


「そうなのー、今日ね、宥生くんが教えてくれた本買ってきたの。報告したくて来ちゃった」


 そう言いながら彩夏ちゃんはバッグの中から単行本を取り出して俺に見せる。そうしていると美咲さんが満面の笑顔で近づいてきた。


「こんにちは。川瀬くんのお友達の方ですか?」


「あ、はい。同じ大学の吉村と言います」


「川瀬くん、ちょうどこれから休憩なんで、ゆっくりしてってくださいね」


 美咲さんは、ちょうど彩夏ちゃんに見えない角度で俺の背中をグイグイ押してくる。びっくりするほどの力強さで俺はよろけそうになった。


「あ、えと。……じゃあ休憩いただきます……?」


 いつも昼飯は近くの安い定食屋で食べているが、彩夏ちゃんを連れていけるような店ではないので、俺はそのまま店内の隅の席へコーヒーとサンドイッチを持って座った。しばらく、買ってきたばかりのその本についてや、映画化が決まった人気漫画についてなど、他愛もない話をする。


 彩夏ちゃんは時々話の切れ間に俺の方を見ては、目が合うと逸した。なにか言いたそうにもじもじと俯いている姿に、俺は嫌な予感がする。しばらく沈黙が続いたあと、意を決したように彩夏ちゃんが話しだした。


「あのね、もう知ってると思うんだけど、わたし伊織くんと付き合い始めたの。夏休みのあと、告白されて……」


「ああ、そうなんだ……」


 俺は言いながら、いつになく伊織が積極的だったことに驚いた。


「いつもすごく優しいんだけど……でもみんなに優しいでしょ? だからなんか不安っていうか……ほんとに私のこと好きなのかなって」


 ああ、やっぱり。いつもと同じパターンだ。伊織は惚れっぽいくせに、彼女と友達の境界が曖昧だ。誰にでも優しいし、誰にでも同じように接する。だから女の子たちは、だんだん不安になるらしい。俺はそんな彼女たちにいつもこうして同じことを言っている。


「……それは、ちゃんと好きだよ。彩夏ちゃんのこと。じゃなきゃ付き合ったりしないよ」


「ほんとに? 信じていいの?」


 泣きそうな顔で俺を見上げる彩夏ちゃんに、俺は大丈夫だよ、と言うより他なかった。









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