和真:05話 その声が 

 部屋に人を上げるのは久しぶりだ。以前は宮原を始め仲間たちが時々訪れたりしていたけれど、目が悪くなってからは誰も招いていない。


 本以外の雑貨は処分した。慣れないうちはスマホを取ろうとしてペン立てをひっくり返したり、ほとんど使っていなかった照明スタンドにぶつかって倒したりと、何もかもが僕の敵のようだった。そいつらをまとめて処分して、すっきりした殺風景な部屋で、僕は薄暗い孤独に浸っていた。


 唯一とも言える趣味の料理もしなくなり、賞味期限の切れたスパイスやら醤油やら、全部まとめてシンクに流した。余計なことは何もしない。変化を忌避する。仕事をし、食事をし、寝る。ただそれだけの最小限の暮らしを三年続けてきた。


 それなのに僕はまた、オリーブオイルやみりんや醤油や砂糖を買ってきた。美味そうに食べるあの大学生のために。どうかしていたとしか思えない。一人では絶対に買わない塊の肉を買い、二日前から下ごしらえをした。


 仕事帰りの夕方の駅で、待ち合わせ場所にはすでに彼が居た。ぼんやりとした視界の中でも、周囲から頭一つ抜きん出た彼は目立つ。


「ごめん、待たせたかな」


 何かを探すような素振りの彼にそう声を掛けると、慌てたように身じろいで答える。


「ちょうど今来ました」


 僕は少しの買い物に彼を付き合わせ、部屋での食事を提案した。彼はすぐに僕の意図を理解したらしく、快く同意してくれた。


 料理の最後の仕上げをする間、彼はリビングでおとなしくしていた……が、待ちきれなくなったのか、いつの間にかキッチンに来て、僕が料理するのを眺めていた。大学生くらいだとなかなか自炊もしないだろうから物珍しいのか、それとも空腹のせいか。


 僕は冷蔵庫から彼のビールを出そうと、包丁を置いて体の向きを変えた。その瞬間、彼が咄嗟に手を伸ばすように踏み込んだかと思うと、次の瞬間、体に強い圧迫を感じ足が宙に浮いた。僕は何とも言えない変なうめき声を上げて、固まった。


 足元にはシンクから滑り落ちた包丁があり、それを見下ろして僕はようやく息を吐き出す。呆気にとられて包丁を見つめていると、腰の辺りに違和感がある。気づくと同時に彼は僕を床に下ろして申し訳無さそうに言った。


「ちょっと、すみません。……あの、こっち見ないでください」


「あの、最近疲れてて。あとその……ずっと抜いてなくて」


 ……抜い……ああそういう…… 若いとそんなものなのか。僕は納得したようなしないような、適当な返事をして、振り向くのはやめておいた。


 気まずい空気を追い出すように僕は料理を再開し、彼はそろそろとリビングへ退散していった。様子を見ながら仕上げ、皿を運ぶ頃には彼の問題は解決したようだった。


 テーブルの上で塊のローストビーフを切り分け、細かく切り込みをいれてオリーブオイルで仕上げたハッセルバックポテトを付け合わせにして彼の前に皿を置く。おやつを出した時の甥っ子みたいな顔で皿を見る彼に、作った甲斐があるなと僕は満足した。


 以前食事をした時と同じく好き嫌いはないようで、気持ちのいい食べっぷりだ。張り切って作った料理の後始末が数日続くかと覚悟をしていたが、どうやら大して残りはしないようだ。


 一通り食べて腹が満たされた様子の彼を見て、僕は本題である彼の原稿について話をする。宮原が書き込んだ原稿を返し、僕の感想も簡単にまとめて伝えた。


 返された原稿をうやうやしく受け取り、彼は神妙な顔で僕の話に耳を傾ける。本当にイルミネアの熱心な読者らしく、当時の流行りや苦労話をすると目を輝かせて聞いていた。大きな体でかしこまって椅子に腰掛ける様子がまるで大型犬のようで、僕は話しながらつい口元が緩んでしまう。


 ひとしきり話が盛り上がったあと、テーブルの上の皿を下げると、彼は皿を持って僕についてきた。二人がかりでの片付けはあっという間に終わり、僕は最後にコーヒーでも出してお開きかなと考えていた。


 鍋や包丁をしまい、最後の皿を拭いて棚に戻すと、彼は何か言いたげに視線を彷徨わせていた。僕はその時、はっきりしないけれどどこか身に覚えのあるような、曖昧で無謀な感情がひとかけら、胸の奥の方で熱を持つのがわかった。そして迷いつつもそれを吐き出してしまった。


「もう少し飲む?」


 彼が嬉しそうに頷いたので、僕はいつも飲んでいるワインを彼に出す。酒には強いようだし、ワインの知識も有るようだったけれど、意外なことに初めてだという。ワインについての描写は想像らしい。ふと彼の小説に出てくるワンシーンをつぶやくと、彼は間髪入れずに続きを暗唱した。


 ヘッドホンを介さない彼の声が直接僕の耳に届く。隣に座る彼の表情がどんな風かは分からない。ただ低く落ち着いた彼の声が、執着に近い感情を孕んだ男の心情を僕に語っている。


 僕が知っている川瀬宥生は、この声がほぼ全てだ。輪郭の曖昧な彼の大きな体の、黒子ホクロや瞳の色は分からない。ただいつも僕を驚かせそして安心させる声と、手のひらの大きさと熱だけが、僕にとっての彼だった。僕は口に含んだワインをどうにか飲み込み、動揺を隠しながら言う。


「……ごめん、ちょっと驚いて。川瀬くんって意外と情熱的だよね。なんかすごくリアルっていうか、主人公と川瀬くんのどっちがそこにいるのか分からなくなるよ。まるで本当に『彼』が目の前にいるみたいに話すから」


 曖昧に笑いながらそう言ってごまかすと、彼は真剣な表情で低く、でもはっきりと呟いた。


「目の前に、います」


 確かにそう聞こえた。間違いなく。それなのに僕は無意味に聞き返す。


「え?」


 聞こえないフリなんて無駄なことをして数秒の時間を稼いでも動揺は収まらないし、むしろ彼の答えに怯える心臓がうるさいだけだった。


「『彼』は都筑さんです。……謎が多くて、手が届かなくて、触りたいのに触れない人なんです」


 情けないことに僕は動きを止めたまま、微かな声も出せずに彼を見つめることしか出来ない。彼はそんな僕にとどめを刺すように続ける。


「『彼』の髪の毛の触り心地も、肌の色も、俺を見る視線も、時々笑ってくれる唇も全部都筑さんです」


 僕は致命傷を受けて息が止まりそうになる。どうやってこの深手を、何事もなかったかのように隠しおおせるのか、必死で答えを探した。ワイングラスをテーブルに置き、彼の方へ向き直ろうとしたその時、彼の手のひらが僕の頭を引き寄せた。驚いて咄嗟に体の前に手を出す。


 よろけるように彼の胸に手をついて体を支えた瞬間、目の前の彼の顔が鮮明に見えた。僕をまっすぐに見つめている、くすんだ灰色の混ざった瞳。そんな事を思っていると彼の唇が僕の唇をまるでデザートの果物のように食べた。舌が絡め取られ言葉が出ない。息苦しさにもがくと、不意に力が緩められ僕は開放された。

 

 蹂躙されたのは僕の方だと言うのに、何故か彼が命乞いをするような表情で僕を見ている。混乱した苦しい呼吸の下で一言を絞り出す。


「な、なに、これどういう――」


 僕の反応に怯えたように何かを言いかける彼に、僕は思わず声を荒げる。


「いくら酔ってるからって、悪ふざけにも程がある」


 彼が苦しげな表情で答えるのが耳に入ってこない。男が好きなわけではないと言う彼に僕の混乱はさらに大きく揺れる。固まったまま動けずにいると、不意に彼が僕の手を握った。驚いて顔を上げると懇願するように彼が言う。僕が嫌がることは二度としないと。僕が体の力を緩めると、彼もホッとしたように息を吐き出す。





 僕は無言で立ち上がると、そのまま逃げるように浴室に向かった。勢いよく流れるシャワーの水流を眺めながら、僕はたった今起きたことの原因と結果を考えようとしたが頭が働かない。冷たい水を頭から浴び、なかなか冷めないのは体温ではなく頭の中だということに気づくのに長い時間がかかった。


 ようやく肌のほてりと汗を洗い流し、バスタオルを被ってリビングに戻ると、そこには彼がうなだれて座っていた。もう居なくなっているかも知れないと僅かでも考えた僕は少し後ろめたくなった。彼は気の毒なほど不安げな表情で、まるで僕の裁きを待っているようだった。


 性的な興味が強い年頃だし、とりあえず手近なところで発散したかったのだろうと僕なりに結論づけた。ところが自分で出したその結論に怒りが湧く。僕はそんな苛立ちを彼への非難の言葉にしてぶつけた。


 だが彼はそれを否定する。そして僕への思いをたどたどしく訴えた。必死に僕に伝えようとするその姿に、僕はどこか安堵したような気分になる。その曖昧な感情が更に僕を苛立たせる。


 とにかくお互いに頭を冷やすしかない。僕は彼を追い出すようにして帰らせた。最後になにか言いたげな彼を、僕は制止して玄関のドアを閉める。

 扉の向こうに遠ざかっていく足音を確かめて、僕は堪えていたため息を大きく吐き出し、震える脚でどうにかベッドまでたどり着くと目を閉じた。

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