和真:エピローグ

 昨日まで雨が数日続き、ずっと散歩がお預けだった。今日は朝から太陽が顔を出し、暖かい。僕はいつもより一時間早くマンションを出た。エレベーターのドアが開いた途端に、グイグイと僕を引っ張るのは三歳になるミックス犬、ショコラだ。


 子供の頃から犬が好きで、いつか飼いたいと思っていたけど、仕事が忙しくて諦めていた。ようやく独立して二年が過ぎた頃、少し時間の余裕もできたし、毎日オフィスに連れて行くこともできるようになった。僕は決心して小さな保護犬の里親に立候補した。


 その子犬は体重四キロほどで、コロコロと丸い体に、垂れた耳と眠そうな目がどこか情けない、可愛らしい顔をしていた。それまで僕はなんとなくかっこ良くて強そうな名前ばかりを考えていた。政宗とかいいな、なんて思っていた僕はいざ子犬を見て考え直した。黒い毛並みからショコラと名付けたけど、結局今では僕以外の人間はみんなチョコと呼んでいる。


 三歳になり、ショコラは立派に成長した。両親ともに大型犬だったらしく、体高は七十センチ、体重は五十キロを超えた。黒い被毛が美しく堂々とした姿は、今となっては政宗で正解だったような気もする。


 僕の足元や、時にはソファーで寛ぐショコラを、スタッフのみんなは上手く跨いで避けて歩く。天気のいい日は、みんな先を争って散歩に連れて行きたがる。気分転換にちょうどいいらしい。スタッフがショコラに抱きついて深呼吸している姿もときどき見かける。


 しばらく雨が続いて、あまり長い散歩に連れて行ってなかったせいで、今日のショコラはものすごい勢いで歩いた。いつもの散歩コースから少し遠回りして歩き、商店街へと入っていく。八百屋のおかみさん、お茶屋の三代目、焼き鳥屋の店長、あちこちから声がかかり、ショコラは必ず全員の所へ挨拶しに行く。


 以前誰かにおやつをもらったのを覚えていて、今日もきっと、と期待して喜び勇んで愛想を振りまくのだ。だけどごめんねショコラ、あの調子でおやつを食べていたらお前は肥満になってしまうんだよ。僕は可愛がってくれる皆さんにお願いして、おやつは週に一度だけにしてもらった。


 大好きな人達に挨拶を済ませると、ショコラは再び急かすように歩き出す。商店街の真ん中を過ぎ、喫茶店からコーヒーのいい匂いが漂ってくる。それを胸に吸い込みながら隣の建物のガラスの扉を開ける。するとすぐに、おはようチョコちゃん、と女性スタッフに声を掛けられて、リードを外すと同時にショコラは奥に走っていった。


 ここは駅前の商店街の中でもともと靴屋だった店舗を改装した、居心地のいい小さなオフィスだ。にぎやかな喧騒の中にある、僕たちの城。ここで、今はまだ無名の才能を発掘したり、作家や脚本家の卵を集めてワークショプを開催したりと、新しいことに挑戦している


 ゼロから物語を生み出す。僕と宮原、そしてスタッフみんなの城。ずっとぼんやりと考えていた夢を、ようやく形にすることができた。僕は長く勤めてきた会社を辞め、独立した。宮原がついてきてくれたのは意外だったが、心強い。


 独立してもうすぐ六年、ようやく仕事も軌道に乗ってきた。広々とした開放的なオフィスには、事務机を置くのをやめた。中央にダイニングテーブルのような大きなデスクを置き、その周りにはソファやスツール、デスクチェアが無造作に配置されている。それぞれが好きな場所に座り、自由に仕事をしている。一応、奥に仕切られた個室が二つあって、その一つが僕の部屋ということになっているけれど、僕も大抵この大きなデスクの一角にPCを広げているので、その部屋はめったに使わない。


 大きなデスクを数人で囲み、ああだこうだと話をしながら作業をする。集中したいときは奥の個室に籠もることもあるが、結局は誰かの意見が必要になって、すぐに出てくることが多い。


 いくつかのファイルに目を通し、電話をかけたあと眼鏡を外してデスクに置くと、その音に反応して、僕の足元で蹲っていたショコラが首をもたげる。僕はショコラの頭を撫でてやった。こちらを見上げて笑うような表情で舌を出し、気持ちよさそうに目を細める。壁際に座って仕事をしていた女性スタッフの島田さんが、不意に思い出したように声を上げた。


「あ、今日あれですよね、授賞式」


 それを聞いて、デスクの角を挟んで隣にいた宮原も自分の腕時計を見ながら答える。


「そうだな、もうそろそろじゃないか」


 ちょうどそこへ、大学生バイトの森田くんも顔を出した。


「じゃあ一休みします? お茶いれましょうか」


「ありがとう。そうだ島田さん、冷蔵庫に頂いたお菓子が入ってるんだ」


「わーやった! 寿ゑ廣すえひろの箱ですよね、めっちゃ気になってたんです」


 みんなでワイワイとお茶を飲み、もらった和菓子を食べながら、壁掛けのモニターを見る。いくつかのCMのあと、WEBのニュース動画が映し出された。


 どこかのホテルの会場で、「第百六十七回 並木賞受賞式」という文字の下、金屏風を背に男女が一人ずつ立っている。


 報道陣がカメラを構えて二人の姿を映し出す。四十代くらいの女性はモスグリーンのワンピース、もうひとりの男性は二十代くらいで背が高い。長身を濃いグレーのスーツに包んでいる。ありきたりな服装だが、彼の恵まれた体格と落ち着いた物腰は、きっと見る者の目を惹き付けるだろう。バシャバシャとシャッター音が響き、画面が強く明滅する。


「このひと、五作目で受賞なんですって」


 音量を上げながら、島田さんが言う。森田くんがそれを聞いてすげえな、と呟いた。島田さんは大きく頷きながら言う。


「ほんと、超イケメンですよね」

 

 ため息をつきながらうっとりとそう言う島田さんに、宮原は吹き出して、そこ? と突っ込んでいる。


「え、そこも見ますよね、やっぱり」


 爆笑する三人を微笑ましく眺めながら、僕は受賞者のスピーチに耳を澄ませた。


 長身の彼はまだ二十七歳、若い受賞者に注目も集まり、これから取材を受けることも話題になることも増えるだろう。彼の、作家としての新たなスタートだ。大勢の記者から質問が飛ぶ。彼は受賞の喜びと、感謝の意を述べ、そこでまたシャッター音が続く。インタビュアーが最後に一言、と言って彼にマイクを向ける。


「僕が本格的に小説を書き始めるきっかけになった人がいます。その人がいるから僕は小説を書き続けているんです。……それに高校の恩師、友人たち、家族、彼らのおかげでこの作品を書き上げることができました。ありがとうございます」


 彼は真面目な声色で、そう答えた。


「身近で支えてくれた方がいらっしゃるんですね」


 インタビュアーが相槌を打つ。


「はい。……その人に読んで聞かせるのが僕の小説の結びなので、実はまだこの小説は未完なんです。これから聞いてもらいに行ってきます」


 その突飛な答えにインタビュアーは、なるほど……と歯切れの悪い返事をし、続いてもうひとりの受賞者へのインタビューが始まった。それを見ていたうちのスタッフも怪訝な顔をしている。


「どういう意味ですかね、音読する派ってこと?」


 島田さんが不思議そうな顔をし、森田くんはスマホで何やら調べる。


「あんまりこの人の情報ないんですよね、まだ歴も浅いからほとんど露出してないし」


「へえー、でもほんとイケメン。しかも声が良い」


 スタッフたちが他愛もない話で盛り上がり、やがてニュースが終わる。再びそれぞれが自分の仕事に戻り、次回のワークショップや同人誌についての進捗を確認する。森田くんは大学の文芸部に所属していて、学生仲間の同人誌と、うちで出すものと同時進行になっているので、執筆も相談しながら進めている。


 そうして黙々とキーボードを叩きながら仕事をしていると、不意にデスクのスマホが光った。仕事用ではない僕のスマホに直接電話を掛けてくる相手はあまり多くない。


「もしもし? ……ああ、うん、見たよ。…………もう終わったの? わかった、待ってるよ。うん、それじゃあ」


 電話を切り、一時間ほどたった午後三時過ぎ、僕の足元でおとなしくしていたショコラがピクリと頭をもたげ、起き上がると入り口に走った。激しくしっぽを振って、珍しく二度、軽く吠えた。皆がそんなショコラの様子に驚き、入り口に視線が集まる。ドアの向こうには、大きな人影がある。今日はもう誰のアポも入っていなかったから、島田さんが、誰だろう、と呟く。


 立ち上がってドアに手を掛けるショコラを気にしながら、ガラスのドアをわずかに押し開けて、遠慮がちに顔を覗かせたその人物に、ショコラは飛びかかってちぎれんばかりに尻尾を振る。


「こんにちは」


 そう言って入ってきた背の高い人物を、島田さんはしばらく眺め、森田くんもPCから顔を上げてそちらを見る。


「あっ!」


 森田くんが声を上げて、その人物を凝視する。それにつられて島田さんも彼をまじまじと見た後、悲鳴のような声で叫ぶ。


「かわせゆうき!」


 突然自分の名前を叫ばれた彼は、面食らった表情で、あ、はい。と小さく答えた。


「お邪魔します。あ、宮原さん、お久しぶりです」


 彼は小さく頭を下げる。宮原が手を上げて応えた。


「半年ぶりくらい? さっきみんなで授賞式見てたんだよ。おめでとう、川瀬くん」


「ありがとうございます。お二人のおかげです」


 彼は僕の方を見て照れている、多分。そんな声だった。


「おめでとう宥生」


 僕がそう声をかけると、宥生は白い歯を覗かせて大きな笑顔で答える。


「ありがとうございます。すぐに聞いてほしくて、急いで帰って来ました」


「うん、お祝いの準備してあるんだ。僕ももう上がるから一緒に帰ろう」


「はい」


「じゃあ、お先に失礼するよ、宮原、明日のこともよろしく頼むよ」


「任せてください。久しぶりでしょう、一緒に休めるの。ゆっくりしてください」


「ありがとう」


 そう言ってオフィスを出る僕たちを、島田さんと森田くんが呆然と見送る。きっとこのあと宮原は質問攻めにあって大変だろうな、などと他人事のように思って僕は小さく苦笑した。宥生はショコラのリードを引き、ドアを開けて僕に手を差し伸べる。僕は彼の腕にそっとつかまって、彼にエスコートされるように夕暮れ前の商店街を歩く。


 いつからだろう、こうして当たり前のように彼に支えられ、二人で並んで歩くようになったのは。最初の頃、彼に手を引かれて歩くのが恥ずかしくて、いつも半歩後ろに張り付くようにして歩いていたのが嘘のようだ。


「なにかいい事ありました?」


小さく笑ってしまった僕に宥生が尋ねる。


「いい事があったかって? それはそれはめでたい事があっただろ、——

並木賞作家先生?」


「……やめてください、恥ずかしい……」


「先生は、ハンバーグお好きですか? 今夜はハンバーグにしようと思ってるんですが」


 僕が、握った右手をマイクのように宥生の顔に向けると、ものすごい真面目な顔で即答した。


「好きです、ハンバーグ大好きです」


「それはよかった。ご飯に合うように、先生が好きな和風にしましょう」


 先生、先生とからかうと、真っ赤になる。


「ちょっと、ほんとに……まじで勘弁してください」


「あはは、じゃあ食事の後は先生に受賞作を読んでもらおうかな。きっと僕は日本で一番贅沢な読者だな」


「いくらでも読みますよ。俺の小説はすべて和真さんに聴かせるためのものですから」




Fin.



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