和真:11話 心細いときに 

 宮原からの知らせは絶望的なものだった。荷物が誤配された上に、取りに行った宮原は事故の渋滞に巻き込まれてしまって、身動きが取れないと言う。僕も慌ててニュースを見たが、かなり大規模な事故だった。三車線を塞いで横たわったタンクローリーからは炎が上がり、黒煙が立ち込めていた。


 復旧するのに数時間はかかる。恐らく本は間に合わないだろう。もう打つ手がない。ようやくここまで漕ぎ着けたこの企画は失敗に終わるのか。確保したブースに、売り子のスタッフ。みんな僕のために半ばボランティアで参加してくれた子ばかりだ。


 佐伯美佳の陰湿な妨害も乗り越えた。それなのに……ここへ来て肝心の本が納品されない。こんな不運があるだろうか。


 いや、不運ではない。見通しが甘かった僕の責任だ。遊びでやっていることではない。きちんとリスクを考慮しておくべきだった。僕はあまりの情けなさに、声を上げて叫びそうになった。


 だが僕を心配そうに囲むスタッフの前で、取り乱すわけにはいかない。落ち着いて、考えろ。他に何かできることはないのか。僕はスマホを握りしめてロビーへと歩いた。策があるわけじゃない、ただみんなの不安そうな表情を受け止めきれなくて、逃げ出すようにそうしただけだった。


 ロビーのベンチに腰掛けて、当てもないのにスマホの連絡先をスクロールする指先が冷たい。日頃から世話になっているバイク便に頼めないだろうか、そう考えたが、路上で立ち往生している宮原の現在地まで追いかけてほしいなんて、目的地さえはっきり指定できないのに引き受けてもらえるはずもない。


 万事休す――僕は手の中で暗くなったスマホを握りしめた。こんなトラブルを起こしては次回に繋げられるかも怪しい。目を閉じてため息をつき、諦めるための決心を固めようとした時、手の中のスマホが震えて、広いロビーに着信音が響いた。


 もしかしたら宮原が間に合うのかもしれない、その期待に心臓が跳ねて、僕は危うくスマホを取り落しそうになる。震える手で画面に触れ、確認すると相手は宮原ではなかった。


「――川瀬くん」


「ああ都筑さん、よかった。いま宮原さんから連絡もらって、本が間に合わないかもって……」


「……実はそうなんだ」


 僕は電話の向こうで息を切らす川瀬くんの声を聞いて、堪え切れなくなりそうで唇が震える。どうかこの動揺が彼に伝わらないように、冷静を装う。


「今日のイベントは、どうなりますか?」


「協力してくれたみんなや楽しみにしてくれてる人には申し訳ないけど……サンプルを見てもらって、後日宅配するしかない、かな。君にまで心配かけて情けな――」


「俺、取りに行きます」


 迷うこともなく、彼はそう言った。あまりに事も無げに言うので、僕は何か大事なことを聞き逃したのではないかと思った。


「は、……え?」


「俺、バイクで行きますよ。全部は積んで来れないかもですけど、とりあえず百部くらいならなんとか……残りはそのまま宮原さんに持ってきてもらえばなんとかしのげますよね?」


 冷静な声が僕の動揺を包み込むように、言い聞かせるように語りかけてくる。


「で、でも……」


「もう首都高に乗ったんですよね? なら絶対いけます! 大丈夫、間に合いますよ。じゃあ俺、もう出るんで、なんかあったら宮原さんに電話してください」


「まっ――」


 僕の返事を待たずに、通話は終わった。いつも落ち着いた声で話す川瀬くんが、今は有無を言わせぬ強さで一方的に話して、そしてぷつりと途切れた。


 わずかに開いた扉の向こう側では多くの人が準備に追われて慌ただしく動き回っている。僕のいるロビーだけがまるで別の世界のように冷たくて、静かで、僕は一人だった。自分の声の余韻がいつまでも響くようなそのガランとした空間で、スマホを握って僕はしばらく立ち尽くした。


 もう一度、混乱した頭で考える。「間に合う」彼はそう言った。間に合うと信じて動き出した。それなら僕も信じて動くしかないのではないか。……根拠、そんなのはもうどうでもいいのかもしれない。走り出した川瀬くんを信じる以外にすべきことがあるだろうか。僕はスマホをお守りのように強く握ってから胸ポケットに入れ、会場内のブースに戻った。


 机や椅子を並べ、手作りのポップやポスターも掲示されている。机の上にないのは本だけ――不安げな表情で僕を見るスタッフたち。間に合わないかもしれないけどそれでも彼らは彼らの準備を整えてくれた。僕は顔を上げ、努めて冷静な声で彼らに伝える。


「本は間に合う。みんな、予定通りに準備しておいてほしい」


 そう言うと、彼らの表情に安堵の色が浮かぶ。不思議なことに僕自身も、間に合う、というその言葉にとても勇気づけられた気がする。必ず間に合う。その言葉を、僕は口の中で小さく呟いて気持ちを切り替えた。入り口が開くまで、あと二時間しかない。


 僕は努めて冷静に、何事もなかったかのように振る舞う。手伝ってくれるスタッフたちに指示を出しながら、内心は不安でいっぱいだった。川瀬くんは今バイクを走らせている。やたらに電話を掛ける訳にもいかず、彼から知らせがあるまで待つしかない。やがて会場の準備も終わってしまい、来客の入場を待つばかりとなった。



 他のブースでは、机に本が積まれている。新刊が目立つように、POPはここに、そんなことを楽しげに話ながら、それぞれの思いを込めて準備を進めている。そんな中で僕らのブースだけ、机の上には何もない。


 そろそろ皆も様子がおかしいことに気づき始めているのだろう。無言で顔を見合わせ、気まずい沈黙が流れる。開場まではあと二十分足らず。僕は祈るような気持ちで、ポケットのスマホを握りしめてロビーへ様子を見に行く。開場を待つお客さんがもう列を作っていた。


 いたたまれない僕は搬入口へと急ぐ。台車に本を積んで出入りする人の邪魔をしないように気を付けながら、扉の外へ出てみる。まだそれらしい人影はない。落胆を隠せないまま、会場のブースに戻る。


 ——あと五分。握りしめたスマホは冷たいまま、何の音も鳴らない。覚悟を決めるために大きく息を吸い込み、このイベントの失敗を皆に告げようとした、その時。入り口の方から声が聞こえる。


 スタッフと誰かが揉めているようだ。女性スタッフの制止を振り切って、会場に入って来ようとする人物。警備員も一人駆け寄って来る。


「入場証のない方は入れませんよ!」


 女性が声を上げる。侵入者は、不審人物らしからぬはっきりした声で答えた。


「すみません。この荷物だけ! 急いで渡したいんです!」


「ちょっと、あなた!」


 僕は吐き出しそうになった弱音を飲み込む。……そうだ。「大丈夫、間に合う」彼はそう言ったんだった。こちらに走ってくる足音と大きな人影。何よりもその声を間違えるはずもない。一体どこから走ってきたのか、肩で息をしている。僕もつまづきそうになりながら、その声のする方へ駆け寄る。


「都筑さん!」


「あの、その人はうちのスタッフです! 急ぎの荷物を持ってきたんです。入場証は僕が持ってますので、通してください! お願いします」


 僕は精一杯大声で叫ぶ。



「お待たせしました、都筑さん」


 彼はそう言って、ダンボール箱を僕に差し出す。きっと、あの照れたような笑顔だろう。……ああ、僕はその笑顔を自分のものにしたいんだな。僕はこんなにも川瀬くんを想っていたんだ。子供じみた独占欲を、恥ずかしげもなく認めてしまえるほどに。


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