16話 都筑さんの部屋

 十七日の夕方、駅で待つように連絡を受け、俺は二十分も早く着いてしまった。人混みの中に見えるスーツ姿をいちいち目で追ってしまう。何人のサラリーマンを見送っただろうか。これも違う、とスーツの背中を眺めていると後ろから声を掛けられた。


「ごめん、待たせたかな」


「いっ、いいえ全然、ちょうど今来ました」


「よかった。――このあとは予定ないんだよね?」


「はい、今日はなにもないです」


「じゃあ買い物に付き合ってくれる?」


「はい!」


 慣れた足取りで歩き出す都筑さんを追いかけるようについて行くと、スーパーに入った。予想と違う買い物に戸惑ったが、俺は都筑さんの代わりにカートを押して隣を歩く。


「川瀬くん、お酒は何を飲むの?」


「えっ、あ、ビール飲みます」


 そう言うと、都筑さんは俺が飲んでるビールよりずっと高いやつをカゴに入れる。ワインや、果物、野菜などを次々とカゴに入れ、会計を済ませて店を出る。状況が飲み込めなかったが、とりあえず俺は買い物袋を持って都筑さんについて歩いた。駅から離れ、周りが静かになった頃、都筑さんが言った。


「僕の部屋でいいかな。結局それが一番落ち着くんだ。外だとどうしても帰りの時間や混み具合が気になってしまって」


 俺はやっと理解した。当然、俺が断る理由などない。


「はい、全然大丈夫です」


「よかった」


 駅から十分強のマンション、五階の都筑さんの部屋に俺はお邪魔することになった。片付いた部屋は都筑さん自身が暮らしやすいように、動線に物を置かず空間を広く確保しているのだろう。モデルルームかと思うほど生活感のない部屋だが、本だけは例外らしい。


 リビングの壁の本棚と、ソファーの周りだけがまるで本の要塞のようになっている。壁一面の本棚に隙間なく並んだ本、そして入り切らない分だろうか、床にも積み上げられた本が十冊や二十冊ではない。


 夕食は都筑さんが作るという。都筑さんが料理をする間、ソファーに座り、手持ち無沙汰な俺は近くに置いてある本をちらりと見る。有名な文芸誌の最新号が無造作に積んであり、中には海外の雑誌も混ざっている。積まれた本や雑誌の背表紙を順に目で追っていた俺は、その中にふと違和感を覚えて、もう一度確かめるようにそのタイトルを読み直す。


「子犬と暮らそ!」


 俺は思わず顔を九十度傾けて、声に出してそのタイトルを読んでいた。……これは……? カウンターの向こうで料理をする都筑さんの方を見ると、規則正しい包丁の音を響かせている。余計な世話だと分かっているが包丁や火を使うのが何となく心配で、テレビをつけても頭に入ってこない。落ち着かない俺はキッチンに立つ都筑さんの側へ行き、器用に包丁を使う様子を眺めた。


「そんなに腹減った?」


 都筑さんが顔を上げて俺の方を見る。いつか宮原さんと一緒にいるときに見た、あの顔で笑っている。唇の角がキュッと持ち上がって、形のいい白い歯が並んでいるのが見える。いつも周りを注意深く見ているその目は、今は寛いで、少し細めた瞼の奥の瞳が俺の姿を捉えている。


 腹が減って催促をしに来たと思われただろうか。子供に向けるような都筑さんのその笑顔はとても優しくて無邪気だったが、俺が見たいのは違う顔だ、漠然とそんなことを思った。


「あと十五分くらいでできるから、もう少しだけ待ってくれないか。ワインでも飲んで、あ、ビールだったか」


「あ……はい」


 都筑さんは包丁をまな板の上に置き、さっと手を洗うと冷蔵庫の方へ体の向きを変えた。


 その時、都筑さんのエプロンの腰紐がまな板の上の包丁に引っかかった。俺は声を上げるより先に腕を伸ばす。シンクの上から滑り落ちる包丁がスローモーションのように見えた。俺は咄嗟に都筑さんを後ろから抱きかかえるように引き寄せ、勢い余って持ち上げてしまった。


 ガシャン、と音を立てて包丁は床に落ち、それを上から見下ろす俺と、俺に後ろから抱き上げられてつま先が床から浮いた都筑さんは、ゆうに五秒ほどは固まったまま動けずにいた。俺の右手は都筑さんの脇の下から左胸を掴み、左手は腰に回って、やはり強く腰を抱いていた。


 都筑さんの頭がちょうど俺の口元にあって、少しだけ甘くて、でも爽やかな果実のような香りが鼻をくすぐる。唇には柔らかい髪が微かに触れ、少し首を曲げればその髪に顔を埋めることができそうだった。

 

 俺は我に返るのと同時に、自分の体の異変に気付いた。だが気付いたところでどうしようもない。止めることができるなら全力で止めてみせるが、残念ながら俺の力が及ぶところではない。


「……あ」


 ――せめてバレずに済んだらどれほど良かっただろう。だが、都筑さんのその驚きと戸惑いの混じった呟きに、俺は顔から火が出そうになる。俺は抱き上げた都筑さんを後ろ向きのまま俺の体から引き離すように床に下ろす。


「ちょっと、すみません。……あの、こっち見ないでください」


「あ、ああうん」


「あの、最近疲れてて。あとその……ずっと抜いてなくて」


「そ、そうか……若いから、大変だよな」


 後ろ向きのまま都筑さんが困ったように笑うのがわかる。中学生じゃあるまいし、こんなことで勃たないだろう、普通。俺は深呼吸を繰り返し、それ以上の惨事にならないように心を無にして息を整える。


 俺はすごすごとキッチンから退散して大人しくソファーに座り、全く頭に入ってこないテレビをひたすら凝視した。都筑さんは気を利かせてくれたのだろう、十五分よりもずいぶん長い時間をかけて食事の用意を整えた。様子を窺うように料理を運んでくれたときには、俺はやっと平常心を取り戻していた。


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