17話 あなたを想って書きました
先日俺が肉を食べるのを見て、肉料理を用意したと教えてくれた。目を悪くして以来だと言うが、まるでレストランのような仕上がりに驚く。ダイニングテーブルに並ぶ皿はどれも彩りが鮮やかだった。
「すごいですね。店みたいだ」
「昔よく料理してたんだ。ストレス解消っていうか、なんか無心になれるから。結構ハマって色々作ったよ」
都筑さんはワインのボトルから自分でグラスに注いで、一口飲んだ。俺も缶ビールを飲む。少しだけ、同じワインにすればよかったかなと思うのは、端々に感じる都筑さんの大人っぽさに対する引け目からだろうか。
「普段は簡単な和食で野菜ばかりなんだけど、たまにはこうして肉を料理するのも楽しいな」
そう言って大きな塊のローストビーフを切り分けながら都筑さんが笑う。メイン料理を食べ終わったあとには、俺の原稿を持ってきて色々とアドバイスをくれた。全体の構成と、俺の癖で多用してしまう語句の訂正など、さすがプロ目線で、漠然とした感想とは違う細かい指摘が山のようにあった。もう一度大きく書き直したほうがいい箇所もかなりある。
いつまで聞いていても飽きないその話に、俺は今までの人生で一番ゆっくり食事をした。食べ終わるまでは、都筑さんの話を聞きながら時々こっそりとその横顔を見るのが許されるのだから、俺は少しでも長くこの時間が続けばいいと思った。都筑さんも何度かワインを注ぎ足しながら、いろいろな話を聞かせてくれる。少し酔っているのだろうか、意外によく喋る事を知った。
だがいくら時間をかけても、やはり食事は終わってしまう。俺は都筑さんを手伝って皿を洗った。時刻は十時。まだ終電まではしばらくあるが、マナーとしてはそろそろ帰らなければいけない頃合いだろう。――そろそろ帰ります、その一言をこれほどためらう自分に俺は戸惑った。そのうちに皿洗いも終わってしまい、都筑さんは最後の皿を拭いている。
「もう少し飲む?」
俺はそう声を掛けられて、都筑さんの手元を見ていた視線を上げる。
「……はい!」
「川瀬くんて普段最後までずっとビールなの?」
「あ、はい。大体なんでも飲めるんですけど、酒の種類とか詳しくなくて、ビール頼むことが多いです」
「じゃあワイン飲んでみる?」
「ぜひ飲んでみたいです」
「用意するからソファーにでも座ってて」
本の要塞に囲まれたソファーに腰を下ろす。すぐに都筑さんがワインのグラスと小さな皿を持ってきた。俺はグラスに注がれる赤ワインをじっと見る。大きなグラスにしては控えめな量だ。
「まずは一口飲んでみて」
そう言って都筑さんは自分のグラスにも注ぎ、一口飲む。それを見て俺もグラスに口を付ける。舌に触れたときにはブドウのジュースと変わらないような気がしたが、舌に広がると、思ったより酸味がある。飲み込むと渋みと苦味があって、余韻が重たい。ビールのように飲むものではないのだと分かる。
「どう? 飲めそう?」
「思ってたより、好きな感じです。なんかもっと甘ったるいのかと思ってて」
「これは結構渋みが強くて好みが分かれるけど、いけそうだね」
「はい、今まで飲んでたのは何だったのかって感じです」
「そうか、よかった。――結構飲み慣れてるのかと思ったけど。小説の中でワインを飲んでる描写もあったよね」
「ああ、あれは想像しながら書きました」
都筑さんが俺の小説のワンシーンの事を覚えてくれている、俺は心拍数が急に上がって顔が熱くなった。
「“彼は珍しく饒舌で、ワイングラスを傾けながら、その視線は挑戦的に私を睨むのだった”」
ふと都筑さんがそう呟いて、グラスを傾ける。俺は一瞬自分の耳を疑った。それは俺の小説の一節だったからだ。思わず俺はそのシーンを続けて暗唱する。
「“そうしてグラスの中の赤い液体を、一息に飲み干した。私に見せつけるように、その喉を反らし小さく音を立てながら。いつもは薄情に固く結ばれたその唇が、ワインのせいで赤く染まっている。グラスの縁からひと滴、唇を伝ってワインがこぼれた。緩めた襟からその滴が彼の胸に消えていくのを、私はまるで遠くの景色のように眺めた”」
「......っぐ、ゲホッ」
目の前の都筑さんがむせるように咳き込んで初めて、俺は都筑さんを穴が開くほど見つめていたことに気付く。
「だ、大丈夫ですか」
「……ごめん、ちょっと驚いて。川瀬くんって意外と情熱的だよね。なんかすごくリアルっていうか、主人公と川瀬くんのどっちがそこにいるのか分からなくなるよ。まるで本当に『彼』が目の前にいるみたいに話すから」
「……目の前に、います」
「え?」
都筑さんが目を丸くして俺を見る。目元が赤くなり、少し酔っているのがわかる。俺も多分酔っている。だからこんなことを口走ったのだ。でも今は酔っているのを言い訳にしてでも、言わずにはいられない。
「『彼』は都筑さんです。……謎が多くて、手が届かなくて、触りたいのに触れない人なんです」
都筑さんが手に持ったグラスが、ピクリと揺れる。中のワインが赤く光りながら波立つのを見つめながら、これ以上喋ってはダメだと理性が必死にアラートを響かせるのを無視して俺は続ける。
「『彼』の髪の毛の触り心地も、肌の色も、俺を見る視線も、時々笑ってくれる唇も全部都筑さんです」
もう誤魔化せないところまで俺は踏み込んだ。都筑さんはますます驚いて俺を凝視しながら、耳まで赤くなる。半開きの唇から大きく息を吐き出すと、自分を落ち着かせるように一口ワインを煽って、グラスをテーブルに置いた。戸惑うように、困ったように、都筑さんは唇の中で言葉を探している。きっといきなり変なことを言い出した俺をなだめて、ワインを飲んだせいにしようとするだろう。
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