12話 助けた人は

 伊織のアパートであいつを降ろし、二駅離れた俺の部屋に帰る。平日の夜八時過ぎ、途中の駅前にはまだ沢山の人がいた。バイト先の店があるその駅を通り過ぎて、三キロほど走れば俺の部屋だ。さすがに三時間走り続けると肩が凝る。


 俺は駅前の赤信号で停車し、ヘルメットのシールドを上げて生暖かい空気を吸い込んだ。腕をぐるぐる回して肩をほぐしながら、駅前のロータリーを渡っていく歩行者を眺めた。


 歩行者信号が点滅し始め、ギアを一速に踏み込んだ時、どこかで喧嘩のような声が響いた。ガラの悪い男の怒鳴り声だった。酔っ払いめ、俺はそう思いながら何気なく歩道を見る。


 大学生くらいの三人組が、スーツを着た男の人と揉めているようだった。一方的に大学生が怒鳴っている。俺は気分が悪かったが酔っ払いの揉め事にわざわざ首を突っ込む趣味はない。シールドを下げて発進しようとしたその時、スーツの男性が突き飛ばされてよろけ、そのまま尻もちを付いた。


 どうしてなのかは分からない。だが俺は信号が青に変わった時、走り出すことができなかった。ゆっくり発進すると歩道に乗り上げ、ガードレールに寄せてバイクを停めた。


 三人組はまだその男性に向かって怒声を浴びせている。周りの歩行者はチラチラと、しゃがみこんだ男性と三人組を横目に見るが、そのまま遠ざかっていく。俺はヘルメットを脱いでミラーに引っ掛け、その三人組の方へ近づいた。暴力を振るっているわけではないが、明らかに度が過ぎる。最悪は通報するしかないと思いつつ、俺は彼らに声を掛けた。


「どうしたんすか」


「ああ? 何だよ、てめえに関係ねーだろが」


 案の定、三人組の中で一番興奮している男が食ってかかってくる。連れの二人はもうどこか冷めたような目つきだった。俺は歩道に座り込んだスーツの男性を見る。


 ――ぎょっとして、俺はその人のそばにしゃがんでもう一度よく見た。突き飛ばされて後ろに手を付いたのだろう、擦りむいた手のひらに血が滲み、歩道の砂が傷口の周りを汚している。蒼白な顔はどこか怯えたように空中を凝視したままだ。


 都筑さん……俺は口の中で独り言のように呟き、都筑さんの腕を掴んで立たせた。腕に触れた時、こちらが驚くくらいに体を強張らせたので、俺は背中に手を回して支えた。ふらつきながらやっと立ち上がった都筑さんの体を俺は自分の後ろに隠すようにして、もう一度男たちに聞く。


「何があったんすか」


 立ち上がりながら俺はわざと一歩前に出て、喚く男に近づいた。至近距離まで詰め寄ると、男の視線は俺の肩のあたりになる。圧迫感があるのだろう、大抵の奴はこうすると嫌がって後ろに下がる。男の視界から都筑さんを隠せるし、遠ざけることもできるから俺は男が下がった分、更に一歩詰めた。


「何があったんすか」


 俺は顔色も声色も変えずに同じことを繰り返した。俺を見上げた男はもうすでに興奮から冷めていて、残ったのはただの苛立ちだけだろう。


「こいつがフラフラぶつかって来っから、俺の服にコーヒーがかかったんだよ。このオッサン、無視してぼけーっとしてんから謝ってクリーニング代よこせって話だよ」


「そうなんすね。それはほんと申しわけないっす。クリーニング代っていくらですか?」


 連れの二人はもう面倒くさそうに俺を見ているだけだった。コーヒー男は俺が謝るとほんの少しだけ威勢を取り戻し、唾を飛ばして怒鳴る。


「このTシャツ限定モデルなんだよ。もうどこにも売ってないんだよ、どうしてくれんだよ」


「だから、クリーニング代払います」


「五万」


「はい?」


「五万だよ。ブランド品だからそこらのクリーニング屋に出せねんだよ。五万払えよ」


 俺はため息をついた。諦めのため息だと思ったのだろうか、男が俺に向かって右手をプラプラさせて金を催促する。俺はその右手を掴むと、平泳ぎをさせるように手のひらを外に向けて捻った。そのまま肘を押さえてやると、男は小さく声を上げて体を折り曲げる。


 手首と肘を押さえられたせいで、腕よりも低い位置に肩を下げないと痛むからだ。男はおじぎをする様に体を折って下を向いている。俺は屈み込んで都筑さんに聞こえないように男の耳に囁いた。


「三千円受け取って帰るか、右手諦めるか、好きな方選べ」


 男は脂汗をかきながらも俺を睨んだ。俺はほんの少し、掴んだ手首を下に引いた。男が、ああっと周りに聞こえるほどの声で呻いた。これより下げれば男は地面に這うしかなくなるが、そこまですると人目を引きすぎる。俺は迷った。後ろには都筑さんもいるんだ。そのまましばらく動けずにいると、男の連れが割り込んできた。


「こっちももういいんで、もう勘弁してください」


 俺は男の手首を離す。男は手首をさすりながら、まだ何か言いたげだったが、連れに引っ張られるようにして俺から離れた。


「クリーニング代、払います。三千円で足りると思うんですけどそれでいいすか」


 俺は尻のポケットの財布に手を伸ばしたが、男たちはもういいんで、と言いながら足早に人混みへ消えていく。三千円の出費を免れて俺は内心ほっとした。


 慌てて振り返ると、都筑さんが歩道の端で蝋人形のように直立したまま、まだ青ざめた顔をしていた。声をかけようと都筑さんの腕に軽く触れると、弾かれたように体をすくめて持っていた鞄を地面に落とした。俺は驚いて思わず息を飲む。都筑さんは慌てて、落とした鞄を手繰り寄せるように拾った。


「あの、都筑さん、大丈夫ですか?」


 恐る恐る声をかけると、都筑さんはハッとしたようにこちらを見た。


「……あの、どこかで……? あ……駅前のカフェの……?」


 掠れた声で都筑さんが呟く。


「……川瀬です。こないだ原稿見てもらおうとしました」


「……っ、は、そうか。川瀬くん、か」


 都筑さんは喘ぐようにそう呟いて、大きく息を吐き出した。ようやく震えていた体から力が抜けたように見える。


「大丈夫ですか? 手、血が出てます」


 都筑さんが、きつく握り過ぎて白くなった手を開くと両手のひらが擦りむけている。


「ちょっと待っててください」


 俺は近くの自販機で水を買って戻った。都筑さんの両手に水を掛けて、とりあえず汚れと血を洗い流す。洗ってから気づいたが俺はハンカチを持っていなかった。どうしようかと思案していると、都筑さんは自分のパンツのポケットからハンカチを取り出して手を拭いていた。俺は自分が子供みたいで少しバツが悪かった。


「あの、よかったら送っていきますけど、俺バイクなんで」


「……えっ、あ……いや大丈夫、一人で帰れるから」


 一瞬、都筑さんの瞳に浮かんだ怯えの色に、俺は慌てる。


「あっ、すみません。キモいすよね。いきなり家まで送るとか」


 都筑さんは怒っているような、泣きそうな、よくわからない表情で黙り込んだ。俺は変なことを口走った自分に幻滅した。


「……違うんだ。その、君が怖いとかじゃなくて……」


 しばらく何かを迷うようにした後、都筑さんは意を決したように言った。


「川瀬くん、少し時間あるかな。……夕飯はもう食べた?」


 予想の範囲を大きく外れたその言葉に俺は口を開けたまましばらく固まった。


「えっ?……飯? ですか? いや、まだですけど、」


 自分の答えが都筑さんの質問に合っているのか、俺は答えながらも頭の中は混乱していた。都筑さんはそうか、と呟いて、もう一度俺の方を見る。


「じゃあ、僕の行きつけの店でいいかな、ごちそうするよ。お礼も兼ねて」


「は、はい……?」


 よくわからないまま俺は頷いて、都筑さんについて歩いた。

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